東海林直人のゴロテマ日本史◇中世9(足利義持~勘合貿易)
※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。
※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです
※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)
◇中世§81.足利義持の守護統制の覚え方(上杉禅秀の乱)◇C
[ゴロ]植え過ぎ全朱の蘭で/次第に気持(ぎもち)ウジウジ
(上杉禅秀の乱)(4代義持、4代鎌倉公方持氏)
[句意]植え過ぎの全部朱色の蘭で次第に気持ちがウジウジしてきた、というナンセンスの句。「気持」は「義持」のゴロのため(ぎもち)と読んでください。なお「1416」年も「全朱色」です。併せて記憶してください。また義持と持氏は、奇しくも4代目であること留意してください。
[point]
1.上杉禅秀は、4代鎌倉公方足利持氏に対し挙兵し、4代将軍足利義持の援軍に敗れた。
[解説]
1.上杉氏憲(うじのり)は、4代目鎌倉公方足利持氏との不和で関東管領を辞し、入道して禅秀と号した。
2.禅秀は、反持氏の上杉満隆(持氏の叔父)と反義持の足利義嗣(義満の4男で義持の弟)らとはかり挙兵したが、幕府軍の来援で敗れた(1416~7年、上杉禅秀の乱)。
〈2017慶応大・文2/15:「
(ホ)そもそも前管領入道右京太夫g満元朝臣逝去三ヶ日の内、興遊皆これを憚る。其の故は、当時彼の輩は執政の器なり。尤も古昔の大臣に異なるべからざるか
(原文を一部修正)
問9 下線g「満元」が管領として将軍義持を補佐していた時期、鎌倉公方と前関東管領との間に起こった戦乱を何というか。」
_________________
(答:問9上杉禅秀の乱)〉
〈2016関西学院大・全学部2/2:「
2.下綿部b有力守護を攻めその勢力の削減に努めに関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
ア 義満は、美濃・伊勢の守護を兼ねた土岐康行を追討した。
イ 義満は、西国llカ国の守護を兼ねた大内氏の内紛に介入し、大内義弘を滅ぼした。
ウ 義満は、周防・和泉などの守護を兼ねた山名氏を討伐し、山名氏清を滅ぼした。
エ 義満は、鎌倉公方に反旗を翻した前関東管領の上杉禅秀を討伐し、これを滅ぼした。
_________________
(答:ア○ ※イ×大内義弘を滅ぼした(応永の乱、1399年)のは正しいが、11カ国が6カ国の誤り、ウ×山名氏清を滅ぼした(明徳の乱1391)のは正しいが、周防・和泉はイの大内義弘の領地、エ×上杉禅秀の乱(1416~17)は鎌倉公方足利持氏に対する反乱。4代義持が救援し禅秀を討った。義持は9歳で将軍になったが、父義満没(1408)後にようやく実権を握っていた)
◇中世§82.足利義教の守護統制の覚え方(3件年代順)◇B
[ゴロ](将軍)良しノリは/もちA級/勇気の/赤カー狂(あかかーきち)だ
(将軍足利義教)(足利持氏・永享(えいきよう)の乱)(結城(ゆうき)合戦)(赤松満祐・嘉吉(かきつ)の乱)
[句意]良しノリの将軍はもちろんA級勇気の持ち主で赤色カー狂(きち)だ、という句。「良しノリ」は「ノリが良い」という意味です。
[point]
1.6代将軍足利義教は足利持氏の永享の乱を鎮圧し、結城合戦で勝利したが、赤松満祐の嘉吉の乱で暗殺された。
[解説]
1.足利持氏(1398~1439)は、4代目鎌倉公方で、上杉禅秀(氏憲)の乱(1416~7)を鎮定した後、関東に勢力を張り室町幕府に対抗するようになった。
2.1428年、4代将軍義持が没すると、足利義教が1429年、くじで選ばれ6代将軍に就任した。すると、将軍職を狙っていた持氏は反発し、対立姿勢をつよめた。室町幕府との和平を望む関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏が対立し、両者の争いに発展。義教がこれに介入し、1438(永享10)年、持氏討伐軍をおくった。持氏は敗れて謹慎を望むが、義教はこれを許さず、翌年、自殺に追い込まれた。(永享の乱、1438~39)
3.結城合戦は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い。永享の乱後に6代将軍・足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとした。これに対し持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。幕府軍に対し 結城氏朝・持朝は敗北。遺児2人は殺されたが、永寿王丸(後の第5代鎌倉公方足利成氏。享徳の乱(1455~83)を最後まで戦い抜き古河公方として生き延びる)のみ京都に送られた。
4.播磨の守護赤松満祐は、1441(嘉吉1)年、6代将軍義教の強圧策に危険を感じ先制して彼を暗殺した(嘉吉の乱(変))が、幕府軍に滅ぼされた。
〈2019慶応大・法2/16:「
その原因は、[ 1 ]の神前でくじ引きによって将軍に選ばれた足利義教が、湯起請を好んで用いたことにある。「万人恐怖の世」と許された専制政治を行った義教は、[ 2 ]によって謀殺された。」
_________________
(答:1石清水八幡宮、2赤松満祐 ※原問には選択肢51語あり)〉
〈2019早稲田大・文2/17:「
問6.下線d6代将軍足利義教について述べた文のうち正しいものはどれか。2つ選べ。
ア.東寺の僧侶だった。
イ.くじ引きで将軍に選ばれた。
ウ.代始めに正長の徳政一揆が起きた。
エ.日明貿易を中止した。
オ.享徳の乱で足利成氏を滅ぼした。」
_________________
(答:イ○・ウ○ ※ア×東寺→天台座主すなわち比叡山延暦寺、エ×中止→再開、オ×成氏→持氏)〉
〈2018明治大・文2/13:「
問8.下線部(カ)室町幕府政治の専制化について述べた文章として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
①南北朝合体の実現後に、足利義満は細川氏と山名氏を攻め滅ぼした。
②応永年間に足利義満は、東北の有力大名大内氏を討伐した。
③将軍権力の強化を目指した足利義教は、室町幕府第8代将軍である。
④足利義教は、永享年間に鎌倉公方足利持氏を討伐した。」
_________________
(答:④○ ※①×1391年明徳の乱で山名氏清を滅ぼす、②×東北→周防など山陽道諸国、③×8代→6代)〉
〈2018中央大・文2/10:「
2.15世紀の後半以降、約11世紀にわたり続いた戦国の争乱は、一般に応仁の乱をもってその始まりとみなすことが多いが、実のところ東国ではそれより以前から争乱状態に入っていた。その発端は、1438年に③6代将軍足利義教が、幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼした永享の乱である。この乱の翌年には結城合戦が起こり、[ D ]上杉憲実の手によって持氏の遺児2人が殺害されたが、その後、もう1人の遺児であった足利成氏が鎌倉公方に就任し、鎌倉府が再建された。
しかし、成氏は[ D ]上杉憲忠と対立し、1454年、憲忠を謀殺した。これ以降、成氏およびその子孫と、上杉氏との間で20年以上にもわたって争いが続いたが、この戦乱を[ E ]と呼ぶ。戦乱の初期の段階に、成氏は鎌倉から下総に移り住み、[ F ]と称されるようになったが、一方、室町幕府は1458年に足利義政の弟政知を新たな鎌倉公方として東国に派遣し、成氏に対抗させた。だが、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の掘越に留まらざるを得なかったため、堀越公方と呼ばれた。
問7.下線部③6代将軍足利義教について、専制政治への反発から義教は家臣によって暗殺されてしまうが、この事件の発生年代、名称、暗殺を企てた守護大名の姓名の組み合わせとして正しいものを、次のア~オの中から一つ選べ。
ア.1440年一寧波の乱一大内義隆
イ.1441年―嘉吉の変―赤松満祐
ウ.1443年―三浦の乱―山名氏清
エ.1445年―応永の乱―大内義弘
オ.1446年―元弘の変―今川了俊」
問8.空欄Dは、鎌倉公方を補佐する役職である。この役職の名称を記しなさい。
問9.空欄Eに入る乱の名称を記しなさい。
問10.空欄Fに入る役職の名称を記しなさい。」
_________________
(答:問7イ、問8関東管領、問9享徳の乱、問10古河公方)〉
〈2016早稲田大・文化構想:「
問5 下線c守護に関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 山名持豊(宗全)は、多くの国の守護となり、六分一殿といわれた。
イ 美濃などの守護で強い勢力をもっていた土岐康行は、足利義満に討伐された。
ウ 周防などの守護であった大内氏は、大内義弘の敗死によって滅亡した。
エ 播磨などの守護であった赤松満祐は、嘉吉の徳政一揆の鎮圧に活躍した。
オ 織田信長は尾張の守護家に生まれたが、尾張国内の統一には時間を要した。
_________________
(答:イ ※ア:六分の一殿は山名氏清、ウ:大内氏は応永の乱で大内義弘が敗れた後復活し戦国大名へと成長、エ:嘉吉の乱で赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺。その後馬借・農民らが「代初めの徳政」を求めて起こしたのが嘉吉の徳政一揆、オ:織田氏は守護代で、織田信長の父信秀はその織田氏の中でも庶流)〉
〈2016早稲田大・文:「
問7 空欄cについて。足利義教が殺害された事件は何の変と呼ばれているか。漢字2字で記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。
_________________
(答:嘉吉)〉
〈2012中央大・文:「
史料3
二十四日。雨降る。赤松、公方を入れ申す。猿楽ありと云々。晩に及び屋形喧嘩出来すと云々。騒動の是非いまだ聞かざるのところ、三条手負(ておい)て帰る。公方の御事は実説分明(ふんみよう)ならず。赤松の家炎上し、武士東西に馳(は)せ行く。(後略)
二十五日。晴れ。昨日の儀あらあら聞く。(中略)御後の障子引きあけて、武士数輩出てすなわち公方を討ち申す。(中略)所詮、赤松を討たるべき御企て露顕の間、遮って討ち申すと云々。白業自得の果て、無力の事か。将軍かくの如き犬死、古来その例を聞かざる事なり。(後略)
※三条…三条実雅
出典:『看聞(かんもん)日記』(原漢文)
問8 史料3に記されている「公方」と「将軍」は同じ人物を指している。該当する人物の姓名を記しなさい。
問9 史料3の「将軍」は、将軍権力の強化をねらい、対立する鎌倉公方を討った。その事件の名称を記しなさい。
問10 史料3の事件と最も近い時期の出来事を次の中から―つ選び、その記号をマークしなさい。
ア.明との国交が開かれて勘合を用いた貿易が始まったが、明の皇帝に朝貢するという形を嫌って貿易が中断した。
イ.倭寇の活動が活発化したため、朝鮮軍が対馬を倭寇の本拠地と見なして襲撃するという、応永の外寇が起こった。
ウ.朝貢形式への反対から中断していた勘合貿易が再開され、約20年ぶりに日本と明との間の国交が回復した。
エ.乃而浦・富山浦・塩浦に住む日本人が、与えられていた特権の縮小に不満を抱いて蜂起したが鎮圧されるという、三浦の乱が起こった。
オ.勘合貿易の主導権争いがもとで、博多商人と結ぶ大内氏および堺商人と結ぶ細川氏の間で、寧波の乱が起こった。」
_________________
(答:問8足利義教、問9永享の乱(1438年)、問10ウ ※ア・イ×は4代義持の代、エ×1510年、オ×1523年)〉
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