【メルボルン生活#1】大家さんと喧嘩した話
今日は、メルボルンで初めて家を借りた時の大家さんと喧嘩した時の話を振り返ります。
メルボルンでの家探しは特に苦労した出来事の1つで、今思えばそりゃそうだとと思うのですが自分の条件と相場を理解していませんでした。
その時探していたのは、200ドル/週以下の1人部屋をシティ内でという高条件。
今の私なら言いたい「そんなところある訳ないだろ!」と。
そんなこんなで、条件をシティから郊外へ広げていくと見つかりました。
180ドル/週のひとり部屋。
内見に行きm大家さんもすごく気さくで1晩考えて「ここにしよう」と思いシティから1時間かかる場所で生活をスタートさせました。
私は初海外生活という事もあり、仕事も見つけなければならない、語学もままらない状態で寝れない日々が続きました。
しかし朝は語学学校に行くのに早起きしなければならず、電車の中は真冬なのにも関わらず冷房がついているという状況。
疲れが日々溜まっていくと言う悪循環。
多分、ひとりだったら自分でゆっくりした時間を過ごして解消していけたのだろうけどその大家さんは親切心かいつも私を気遣ってくれました。
今思えば本当にありがたいんだけど、少し自分的に距離が近すぎたのです。
毎日、今日の出来事や仕事のことについて聞いてくれるのですがなんとなく全てにおいてジャッジしてくるのような返事ばかり。
ある日、たわいも無い会話から「私のお父さんは、私がオーストラリアにいることを知らないの」と言うと「あり得ない!」とびっくりされていました。
でもその時私は、友達、元同僚の人にでさえオーストラリアにいることを言えずにいました。
私が渡豪したのはコロナ禍で騒いでいる時、その上うちの実家は特に田舎で父親は心配性。(あの時の田舎の同調圧力は本当にすごかった)
また小言をいう父親が安易に想像できたので、母親だけに渡豪することを伝えて旅立ってきたのです。
少し、後ろ髪引っ張れる思いがあったのは事実です。
なんとなく悪いことをしているような気分で飛び立ちました。
今じゃ考えられないけど、それだけ同調圧力がすごかったのでしょう。
そして、誤解している大家さんに自分の考えを伝えたいけど伝えきれないもどかしさ。
「なんで、お父さんに言わないの?」「親子関係良くないの?」「お父さんはあなたに暴力振るってるの?」などなど、彼女の中で物語が作られていきました。
私も暴力とは程遠い父親がDV男と言われるのが悔しくて、渡豪後初めて泣きました。
それを見た彼女はさらに確信していきました。
その辺から、「なんでまだ出会って間もない人から勝手な想像で、私の家族は不健康だと判断されなければならないんだろう?」と心を閉ざしていく一方、彼女はより距離を縮めてきました。
予定を聞かれたり、彼女の仕事仲間やルームメイトを探して欲しいと言われたり。
部屋も1人部屋だけど、部屋にいるとノックされ部屋にいるのか確認される。
リラックスできなかったのが事実。
そんなこんなで、「もう無理だ」と思いホテルに泊まったり、彼女が寝静まってから家に戻るなどをしていました。
そして彼女からメッセージが届き私の態度が気に食わない、家を出て行って欲しいとの事。
ちょうど、ありがたいことに次の部屋も同時に決まり私は2つ返事でその週末には出ていくことになりました。
出ていく日の朝、彼女はいつもは仕事なのに家に戻ってきました。
荷物を運ぶのを手伝うと言ってくれましたが、私も頑固な面もあり拒否。
しかし彼女もそれ以上の頑固さで結局荷物を運んでくれました。
それから、あんまり良い感じの終わり方はできなかったなと思いつつメルボルンでの生活が1年過ぎようとしていたところ、やっぱりあの時のことが忘れれずにいました。
久しぶりに連絡入れると彼女は持ち前の明るさで返事をしてくれ、会うことになりました。
あの時本当はこう思っていて、父親との関係や家族のことについて言われて悲しかったこと、自分には自分の時間が必要で、、などなど。
そして、彼女も話を聞いてくれてハグしてバイバイしました。
今ではたまにやり取りをする仲です。
今思い返してもあの経験は自分にとって必要だったし、成長できたなと思います。
人との距離感が難しい私にとって、自分を自分で守ると言うこと、他人との境界線に気づけた気がします。
今思うと懐かしいけど、あの時は本当に必死だったな(笑)
まとまりの無い終わり方ですが、自分も自分の勝手な妄想で相手をジャッジしないように気をつけないとなと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
おやすみなさい。