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ミスマッチ•マッチ


或る人のエッセイに吊るしてあった表現

「孤独を叫び続けろ」

これほど愛おしくまた下らない言葉は今のところ私の中にはない。

よくロックバンドなどを聴いていると「あ!この人私のこと歌ってる」と思うことが少なくない。
そんなバンドは売れてからよく、

赤裸々に現実を歌う若者の代弁者

などと講評されている。
自分の中にそっと閉じ込めていた過去の経験やトラウマを歌として世の中に訴えかけているのだ。
それは孤独を叫ぶという意味ではとても意義の或る行為だと思う。しかし大切な物であるからこそ閉まっているべき感情や言葉も同時に存在するするはずだ。誰かが亡くなってから良く聴く言葉ランキングがあるとするなら上位に食い込むであろうセリフ

「こんなことになるなら伝えておけばよかった」

があるが、果たして本当にそうだろか?

おおよそ、生前言えなかった、隠していたことを死後に喪中の中で思い出して後悔先に立たずということであろう。別にケチがつけたいわけではない。

人と喧嘩してぶつかり合い分かち合っていけることはヤンキーを題材とした漫画や映画が証明している。しかし伝えなかった空白の中にも個人それぞれの思いの丈があるのではないか、そう言うことを言いたいのだ。

音楽においても休符、つまり音が鳴らないところも音楽だと言われているように、何も全て伝えておけばオールオッケーということはない。口に出せない程恥ずかしいくらいの感謝、誰かに呆れられて物も言えなくしてしまうだろう後悔。感情の昂ぶりが堰を切らずにあなたの中で沈殿していく。そしてそれは確かに貴方の傷を庇うバンデージになり得るのだ。静かな夜に思い出したもう会えない人へ積年の思いを抱きながら、それでも蜘蛛の吐く糸のようなか細い願いを込めて明日へと向かう日もどこかにきっとある。切なさが孤独と打ち解け合う日々がこれからもある。

赤裸々に言ってしまうことで生じる些細な綻びと、これから自分の人生の傷を庇うであろうかすかな孤独としての充足した予感を天秤にかけ、
その重さを確かめるのが孤独と向き合う確かな方法である。

誰かがポツリと吐いた弱音にしかし自身の瘡蓋を見せる人がこの世にちらほらと存在している。孤独を叫ぶことは優しさであり、自身の存在証明、果ては誰かに共有してもらうことにもなりうる。ミスマッチしたピース同士が本来形どられたパズルの全体図とは違うものとしてくっつき合い完成することもあるのだ。しかしそれを隠すことで醸しでる人間味も孤独を楽しむ者の余地として残して置いても良いはずだ。

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