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じいじ 保育士を目指す! 少子化と閉園

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 妻が送ってきた。妻も保育士登録を済ませて、近所の保育園にパートに入る事になった。つまり、我が家は保育の世界に夫婦で入る事になった。という事で、関心事なのだろう。

 2024年問題としてピークは過ぎて、今度は保育を必要とする子ども達が減少に転じるという人口減少に伴う結果としてマクロな状況では閉園となり、都市部の一部人口増加(子育て世代)による保育需要増が続く(それも短期間)状態で、住民の世帯構成によっては、都内でも保育園閉鎖は起きる訳だ。

 そもそも、保育園は働く保護者の託児所としてある訳ではないが、働く保護者と共にあるという存在である事も間違いない。

 保育園や幼稚園の経営母体も二世三世の同族家族経営がかなりある事も保育の世界に入って理解した。そこに株式会社参入で保育園経営というものの公的性格が、市場経済的なサービス提供のカテゴリーとみなされる状況(保護者も一定数はサービス受給者として保育をみている事も事実だ)の中で、当然撤退の先人を切るだろう事も想像に難くない。

 しかし、そもそも保育所とは幼児の養護と教育が一体となった公的性格が極めて高い施設である。これは昔も今も将来も変わらない根幹の理念だ。供給過多という需給供給バランスは政策的な責任の問題であって、そもそも安定した保育者の教育と保育者供給は、少なくとも2〜4年の教育期間と保育者を選択する人間が存在して初めて成立する問題である。

 ここで、保育者を目指す人間がいなくなり養成校の定員割れと養成校閉鎖によって適切な養成校に淘汰されるというある種の神の手論理は成立しない(適切か不適正なという養成校の選別を超えた閉鎖が当然発生してくるはずだからだ)。そもそも、将来に魅力を持てない職業選択は通常あり得ないからだ。

 公教育の原点である保育システムの根幹が政策的な無能性によって間に合わないという悲劇は、保育園経営の破綻という問題よりも長期的な国力というレベルでいずれボディーブローの様に大きく効いてくるはずだ。

 そもそも、この国にはすでに教育という未来の人達に残す資源しかないのだから。その教育システムの足元さえ維持できないとすれば、この国の公教育システムの変革と共に誰もが望む教育を受けられるという方向性はあり得ない事になる。

 私の大学院も結局後期課程で入ってきた院生(保育学)はいなかった(何人受験したのか知らないが、合格者はゼロだった)。大学の保育科も定員割れだと聞いている。私のいる女子大が人気がないかどうかは別として、保育系を目指さないというのは事実だし、そもそも親が止めるというのも地方の養成校の教員から直接聞いた事がある。

 確かに親ならそうなるし、こういう現実を見れば目指す事自体将来的なリスクを背負う事になるという意味で理解できる。が、しかし公教育の土台となる保育を支える人間がいなくなるという意味は繰り返す事になるが、この国の教育システムの土台が崩壊するという意味である事を現在世代は理解するべきである。

 この問題は、経営資源を他の領域へ転換するという経営論的な問題ではない。この問題が意味するのは教育システムをどう変革していくべきなのかという事なのだという認識がない限りこの国の将来は絶望的だと言わざるを得ない。

 政治の貧困というモノがもたらす子ども達の未来への影響は、現在世代の問題と行動にしか解決する手段がない事を我々は自覚すべきだ

さて、今日はこの辺で。


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