じいじ 保育士を目指す! 紙
昨日は
レジメのレポートを。で紙出力という条件が付されているので、人数分+予備で印刷して綴じたモノを用意して待っていると、今日はリモート3人という。
つまり、3人分は不用だった訳だ。そもそも、リモートがあるという前提ならばファイルの共有が前提になるから、PDFファイルで各自共有すれば紙出力は不用であって少なくとも3部は紙を使わないで済んだ訳で、こういうロスは勿体ないと思うのだがどうだろう?
エコもそうだが、一応手間をかけて用意している訳で、PDFファイルで各自共有していれば、もちろんそういう手間の時間とコストはなくなり負担は軽減されるからだ。
講義が出席前提でおこなわれるのなら、紙もあり?。。。どっちにしろ要らないと思うのだが。。。
こういう部分の不思議な慣習が、世間一般から乖離している様に思うのだが、教授達は、なんとも思わないらしい。そもそも何十年も紙文化で生きてきた人達だから、デジタル上の表示では『気に入らない』らしい。
メモも現在では、普通に書き込めるし、付箋機能もある訳で。。。紙を絶対視する理由は嗜好性以外何があるのだろうか?
前回も少し書いたが、レジメを作るプロセスで、文章作成という過程と、文章構成という編集作業上、紙で出力をしてしまう事(複数画面が欲しいという意味で)はある。実際、推敲はそうなってしまう。が、レジメのレポートはそれがなくてもいいはずだし、紙出力が欲しければ欲しい人が自分でやればいいだけの事だと思うが。。。
実際、そういう意見を言えないヒエラルキーの中では、こういう矛盾や無駄を感じるだけで、辞めませんか?という事はできないのだけど、前回は発表者がリモートで、まさにレポートの電子ファイル共有でやった訳で、理屈上はそういうやり方で問題はない。
そう言えば、以前こういう記事をアップしていたのをこの記事をアップした後に思い出した。
つまり、「紙」至上主義は。。。根強い信仰の上に成り立っている様だ。
レジメ報告をして終わったけど、既に次のレジメの作成に入っているし、取り寄せてある資料を読み込まないといけないというタスクがスタック状態というのが今の状況。
さて、今日はこの辺で。