大切な人をなくすということ


こんばんは。
先日私は、川本三郎さんの「いまも、君を想う」を読み終えた。
読み終えると同時に、美しい文章というものを実感した。

無駄がない。それでいて遊びがある。
文章の中に見えない隙のようなものがそこかしこにあるのに、ばらばらしている感じはしなかった。
全てがそこにあるべきものとして統率がとれていて美しい。なのに、文章の最初から最後までずっと一人ぼっち。

今まで面白い文章を書きたいと思っていた私は、川本さんの文章を読んでからこんな文章を書けるようになりたいと思うようになった。




本の内容は一貫して先に亡くなった奥さんを想う内容だ。
川本さんは評論を書かれている方で、圧倒的に文章を書いてきた量や人生経験の量が違うからかもしれないが、文章の質というものをまざまざと実感した。

実際の地名を出しながら思い出やその時の感情を語ること。
その時の温度感がしっかりとこちらに伝わってくるような文章。
淡々とした回顧の中でも今も奥さんに会いたいと思っているであろうこと。
大切な人が亡くなって、出口の見えないトンネルのような悲しみの中で生きていること。
そのすべてが上品な文章の中で表現されている。


良い文章を書けるってなんだろう、と時折考えている。
でもきっと良い文章を書こうとしてどなたかの文章を真似しているうちは書けないのだということもわかっている。
良い文章を書くには人生経験が足りてないということもわかっている。
人生経験があれば良い文章が書けるというわけではないが、経験が無ければ良い文章は書けない。


きっと前述の川本さんの本は私にとって大切な本になる。
頻繁には読み返せない。読むのに心の体力がいるからだ。
いつ大切な人が余命宣告されるかわからない。自分の余命宣告をされるより、愛している人たちの余命宣告の方が何億倍も苦しい。
いつだって置いていかれる方が苦しい。悲しいことだ。冒頭の本は、最初から最後まで悲しみに満ちている。平野レミさんが亡くなった旦那さんに対しておっしゃったことも、狂おしいほど健気で、明るさの中に仄かに悲しみや自分を置いていった憎み、そして少しだけ恋慕が混じっていた。

大切な人が亡くなって、後を追った人たちの深い悲しみを思う。
しかし、川本さんたちのように、悲しみも思い出も全部抱えたまま今も生きているひとの、抜け出せない悲しみの底も思う。


川本さんは奥さんを亡くされてもう10年以上たつ。今もご存命だ。
文中で、いつか奥様を思い出として思い出せるようになりたい、という旨の記述があった。
半永久的に連れ添うであろう悲しみを、懐かしいこととして思い出せていることを願っている。

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