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自己紹介。

タイトルの通りやっていこうと思う。自己紹介と言ってもどこまで書けば良いのか分からないのでとりあえず自分の匙加減で書いてみようと思う。なるべく淡々と書いていきたいとは思っている。


1 プロフィール


2025年2月1日現在は神奈川(実家)に住んでいて、無職です。年齢は32歳。一人っ子。両親は健在。小学校からテコンドーを嗜んでいます。真剣にやった時期もあります。今は趣味程度でやってます。


2 ざっと過去を振り返る(幼少期〜小学校)


3歳の頃。テレビの電源をつけたかのように急に「自分だ!」って思った瞬間があった。それを今でも覚えている。自分が自分だと思った瞬間。自分の人生が始まった、自我が認識出来た瞬間が確かにあった。


幼稚園小学校と時は進んでいく。父親は警察官。母親は専業主婦(元看護師)。小学校に上がる辺りから家庭の雰囲気はおかしくなっていた。母親は統合失調症になり、家で寝たきり。父親は駐在勤務だったので家にタイムラグ無しでストレスが持ち込まれて常に怒鳴っていた。仕事のストレスで怒鳴り、母親の寝たきりに怒鳴り、時には暴力と雰囲気は最悪だった。まぁ今で言えば機能不全家族と言うやつだと思う。ネグレクト?みたいなのも含まれていたかもしれない。


この頃は正直どうやって生きていたか分からない。母親も父親も家事は出来ない。まともにご飯を食べた記憶も無い。途切れ途切れの記憶の狭間に父親と母親が大喧嘩して母親が精神科に入院したりという大型イベントが差し込まれていたりする。


小学校の頃の自分は頻繁に人を傷つけて、想像力の乏しい子供だった。クラスメイトを怪我させたりもした。クラスメイトが泣いていて自分が先生に怒られて初めて「自分はやっちゃいけないことをしたんだ」と気が付く日々だった。それと勉強は全く出来なかったし、しなかった。みんなが机に向かって黙々と手を動かしている中で自分は時折、周りを見渡しながらも時計ばかりを見ていた。時間が進めば自分の勉強の出来不出来に関わらず授業は終わり、先生が居なくなることに気が付いてから学校は時間をやり過ごす場所となっていった。


小学校四年生ぐらいの頃からテコンドーを習い始めた。きっかけは父親。父親に反抗する勇気も無くそのまま習うことになった。通っていた道場の子たちとウマが合わなくて道場も学校と同じで時間をやり過ごすだけの場所だった。


基本的に放課後はすぐに家に帰ることは無かった。テコンドーが無い日は友達の家に行ったりしていた。高頻度で遊びに来るやつがいるのは相手の家も相当迷惑しただろうなと今は思う。自覚は無いが家にいたくなかったのだろう。家が休める場所ではなくて避けたかったのだと思う。



3 ざっと過去を振り返る(中学、高校、専門)



中学に入っても想像力の乏しい人を傷つける性格は変わっていなかった。相変わらずクラスメイトを殴ってしまったこともあった。ただ中学生ともなるともう大人に近付いている年齢。普通であれば良し悪しの分別は何となく分かり、それが確立されつつある存在。でも自分はその普通からは程遠い所にいた。そのことを普通の感覚を持った生徒が向けてきた目と言葉で何となく気が付いてしまった。そこから派手なことこそしなかったけど自分の性格は陰湿さを兼ね備えて進化していった。ただ幸いなことに自分のカースト位置は下位に属していたので調子乗ることが空気を変えれるほどの影響を持つわけじゃないので勝手に調子こいて、自滅するのが関の山だった。


高校は知った顔が居ない所に通うこととなった。別にそうなることを狙ったわけではないのだが頭が悪かったので中学のやつが誰もが行きたがらないような場所にしか行けなかったのでそのようなことになった。ただそれが功を奏したのか高校はとても楽しかった。中途半端に高校デビューが成功した。というかこれも高校デビューしようとした訳じゃ無かったのだが、身の丈に合わない楽しさと友達の多さを環境によってたまたま与えられてしまったが故にそうなってしまったというのがしっくりくる。しかし身の丈に合わない物は自分の手をすり抜けていくもので高校二年生頃には特定のつるむグループも仲良くする友達も居なくなった。友達は居なかった訳では無いが基本は一人。でもそれはそれで悪くなかった。学校生活でのあらゆる人間関係とグループ内の力関係が俯瞰して見れていたから面白かった。どこかに決まって所属しない過ごし方もあるのだと知った。


進路を決める時期なった頃、周りはどんどん進路を決めていった。自分は焦った。「やりたいことって、自分の興味ってそんなにすぐ見つかるの?」って。特に興味があることなんて無かったし、やりたいことなんて、目指したいことなんてなかった。でもそれを誰にも言えなかった。何か決めなくてはならない。その空気に勝手に焦ってしまった。そこで初めて自分ってなんなんだろう?みたいな事を考え始めるようになった。今まで自分が自分として生きていることになんの不思議さも感じなかったがこの時期を境に今も続く問に向き合うこととなった。



結局専門学校(スポーツ系)に進学した。専門学校時代は汚点と言っても良いかもしれない。行かない方がマシだったと今では思ってる。進路担当の先生が急に居なくなり、専門学校自体の進路対応は地獄だった。担任は根性論ばかりを述べて、平成後半の時代に「100社受けろ!靴を履き潰すぐらいやれ!」などと言う言葉を聞くとは思いもしなかった。そんなこんなで卒業もやってくる。この専門時代に唯一楽しかったことは卒論である。大抵の人は「はぁ?」って思うかもしれないし、実際に楽しんでやってる人は確かに居なかった。でも学校内での発表だし、世の中のお偉いさんに発表したりする訳じゃない。自分は軽い気持ちで出来た。調べたいことを調べることにこんなに沢山時間を使えて、知識ある先生達に聞いたり、試したいことを手伝ってもらうために後輩や同級生に声をかけたりして、周りを巻き込んで自分の調べたいことを調べるという経験は簡単に出来ることじゃないと、その当時から思っていた。もう1回やりたいかと言われたらもう1回やりたい。自分にとってはそれぐらい思い入れのある時間だった。


4 ざっと過去を振り返る(卒業後〜現在)


専門学校卒業後。就職した会社を1日で辞めた。就業時間中に「自分…なにしてるんだろう」って自問が止まらなかった。こんな時間が何十年も続く事を想像したら目の前が真っ暗になった気がした。仕事が終わってからの記憶が無い。気がつけば家の布団で朝を迎えていた。だが体が動かなかった。こんな状態で働き続けることも、こんな状態になる自分も嫌だった。何とか携帯に手を伸ばして会社に電話をかけて「辞めます」その一言を伝え、自分は早々に社会からドロップアウトした。

その後、再度就活を始めた。次は介護をやった。でも3カ月で辞めた。思うことは何も変わらなかった。



介護を辞めてまた就活を始めた。正直、就活もましてや就職なんてしたいと思ってなかった。でもそれ以外に生きていく方法も生きて良い理由も分からなかったし知らなかった。普通の人は仕事をしてお金を稼ぎ生きていく。そしてそれが生きることだと自分も思ってた。でもそれが出来ないなら自分はなんで生きてるのだろうって思った。そこに自分の存在理由と価値が明確に見当たらない。「自分はこの世に必要とされてない存在」その事実を受け止めきれなくて、なんとか自分が生きて良い理由を見つけないといけないと、精神的な生命の危機に陥った時期だった。



普通に働けないのなら夢を追えば良いと思った。世の中には音楽で売れることを目指しながら生きている人もいる。お笑いで売れることを目指しながら生きている人もいる。夢を追えば、そのことについて取り組んでいたり練習する時間は働かなくて良い。その練習時間を確保するために働く時間は減らしてるんだと言い訳が出来る。働くという苦痛な時間を減らすため、それでも生きて良いと思われるため、自分がそう思うために夢を追うことを始めた。小学校からやっていたテコンドーで日本一になることを夢のゴールにした。



テコンドーの傍ら、葬儀の派遣に登録して日雇いで働いていた。週二〜三回。正直これ以上は無理だった。ギリギリ我慢できるのがこの頻度だった。派遣登録なので他の登録してる人が多く出勤を望む日などはたまに仕事がキャンセルになる。それを出勤希望日の前日に連絡が来るのだが毎回「無くなれ!無くなれ!」って祈っていた。お金は稼げなくなるけどそれ以上に本当にやりたくなかった。


そんな日々も二年ほどしか続かなかった。最初こそ「自分のやりたいことをやってるんだ!」って思ってたけど徐々にその日々は義務になっていった。それに耐えられなくなって、成績もふるわず、全日本では三位までしか到達出来ずに幕を降ろした。その後はテコンドーを完全に辞めた。そこからの日々の記憶はごっそり抜け落ちていてどう生きていたか分からない。



そこからしばらくしてテコンドーをまた再開した。趣味として。眼鏡の販売会社に就職して四年務めた。だけど相変わらず仕事に対する感覚は変わらずだった。むしろこの時期が一番辛かった。何が自分の人生に起きてるのか分からない。分からないことが分かるようになってきた。苦しいことが分かる苦しさを知った。頭には常に当たり前に死が鎮座していた。



コロナが日本で流行し始めた頃に仕事を辞めた。世の中の流れに急激なブレーキがかかった。それに自分は救われた。世の中の流れが早すぎてしんどかった。でもコロナのお陰で「立ち止まっても良いよ」と言われた気がした。大袈裟かもしれないけど時代そのものに肯定されている感覚になった。仕事を辞めて一年程引きこもった。テコンドーだけは週一回やって後は引きこもり。



ある時、ネットサーフィンをしていたら一つの記事を見つけた。それは広島に住む作家の人の記事だった。家賃ゼロ円で住める家を作りたいと言う記事だった。お金の不安を少しでも取り除いて好きなことをしてもらいたい。そういう思いが書かれていた。「もうこれしかない」そう思った自分は記事に書かれていた連絡先を元に連絡をした。そうして何回かやり取りをおこなった後に広島に移住することになった。その場所は愛媛に繋がる道中にある島の一つだった。家は空き家でそこがシェアハウスになっていた。そしてそこの改装をしていた鳥取から来た大工さんと知り合う。広島で半年住んだ後に大工さん繋がりで鳥取に移住する。鳥取では二年程住んだ。広島での日々。鳥取での日々。色々なことがあった。しかしそれを書くととんでもないことになるので今は置いておく。そして神奈川に戻ってきて引きこもりの今がある。



かなり最後は駆け足だったが大まかな過去はこんな感じだろうか。自己紹介とはここまで書かないのか?でも長すぎる文章だなと思う。最後まで読んでいただいてありがとうございます。これから更新頑張りますのでよろしくお願いします。




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