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生誕碑除幕式

令和七年(2025年)は江戸川乱歩生誕碑が建てられて70年目に当たります。
70年前の江戸川乱歩生誕碑除幕式と滞在中のことなどを乱歩さんが「宝石 昭和三十一年一月号」に掲載した随筆と手元にある写真などを一緒に見ていこうと思います。


 本書の冒頭に収めた「ふるさと発見記」のことがあって、しばらくすると、三重県の名張市の父の住所あと、つまり私の生れた場所へ、江戸川乱歩生誕の地という記念の碑を建てたいから許してくれという手紙がきた。その発起人は、土地の老舗である本屋さん、自転車販売店、造り酒屋、旅館の主人、桝田医院の院長、伊和新聞という土地の新聞の編集長、朝日新聞の通信員などであった。

生誕碑除幕式

「ふるさと発見記」には、五十七年ぶりに名張を訪れ、生まれた場所を見たこと、昔のままの河原の景色を見たこと、そして当時を知る辻せきに会って乱歩が生まれた時の話を聞いたことなどが書かれていました。

医院の邸内に碑を建てるなんて、ご迷惑な話だからと、一応辞退したが、その医院のあるじも発起人だし、少しも迷惑ではないということで、結局承諾し、着々工事が進められて、昭和三十年十一月三日に、除幕式が行われることになった。
 発起人の中でも最も熱心に万事の世話をしてくれたのは、名張市で一番古い本屋の主人、岡村繁次郎さんで、この人からしばしば文通があり、碑の石が選定されると、その大きさを図解して、表面に土地の書家に揮毫を乞うて「江戸川乱歩生誕地」とたてに彫るから、その上部に横に「幻影城」と大きな字で書いてくれ。又、碑の裏面に私の好きな句を入れたいということで、それを書いて送った。句の方は、このごろ色紙を出されると、よく書くことにしている「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という言葉にした。
 発起人のほかに川崎秀二君をはじめ、三重県知事、名張市長などを筆頭に、土地の公務員、商家など多くの人々から寄付をつのり、碑ができ上がった。碑石は名張川の川上から運んだ御影石の自然石で、台石も御影石、台石に銅板をはめこんで、そこに私の探偵作家としての略歴が彫ってある。台石をあわせて、高さ六尺四寸ということであった。桝田医院の中庭は五十坪ほどあり、樹木のない空地になっている。そこの一方に碑を建てたので、除幕式に人が集まっても百人ぐらいは入れる余地がある。

生誕碑除幕式

岡村繁次郎さんは書店の主人だけあって、江戸川乱歩の大ファンでした。何かと乱歩さんに連絡をとっていて、それだけではなく、とうとう乱歩邸にお邪魔して泊まらせてもらうまでになっていたようです。
そして遂に除幕式当日を迎えます。

江戸川乱歩夫妻

十一月三日の除幕式には母と私達夫妻と三人で来てくれということだったが、母は汽車や自動車の長旅には耐えられないので私達夫妻だけが、三重県鳥羽造船所以来の友人で、あの地に知り合いの多い本位田準一君を同伴し、途中名古屋駅で旧友岡戸武平君に会い、一緒に行ってもらった。岡戸君が中部日本新聞社会部の人をつれて来ていて、駅でインターヴューをし、翌日の同紙に私の談話が掲載せられた。
 当日雨が降ったら、桝田医院の住居の二階の広間で式をやる予定だったが、幸い好天気であった。場所が狭いので、招待を主な人々だけに制限したが、それらの人々は皆参会して下さって、賑やかに式を終った。除幕の綱は市長のお嬢さんによって引かれ、又、桝田医師のお嬢さんが私に花束を下さった。

生誕碑除幕式
桝田医師とお嬢さん

この式典には乱歩さんの母きくさんも招待されていたのですが、ご高齢のため参列できませんでした。式の様子は乱歩さんから詳しく聞かれて、後に辻せき宛にきくさんから礼状が届きました。
手紙の中には名張での思い出などを綴っておられました。

平井きくさんから届いた令状

日ましにおさむくなります あなた様ますます御げんきのよし 何よりと存じ上ます 
先日はいろいろと倅がおせわさまになりまして 其上私へ御みやげ有りがとう御座いました お手になりしお人形 実にかん心致しました 是はりっぱなげいじゅつひんで御座います 私も近い所でしたらおしえて頂きたいと存じました 今二三年早ければからだも丈夫で一人で行けましたでしょうに 其きかいがなかったのです
私 名張は皆さんとてもよい方ばかりでしたからもう一度行きたいと思ふて
居りましたが此度のはれのお式にも出られずざんねんでした 倅より式のもようなぞ 手にとるようにきかしてもらいましたのでまんぞく致しました
いくえにも皆々様のおかげと厚く御礼申し上げます
おさむさのおりから御身たいせつに遊ばしてくださいませ 先は右お礼までかしこ
 辻 せき様               きくより

はづかしながらお目にかけます
     おもいでは
      きよきながれの
          なばり川
       むかしなつかし
             友のまごころ
                          きく


発起人の経過報告、市長、市会議長、土地出身の県会議員などの祝辞、それに、探偵作家クラブ会長木々高太郎君の祝辞を、本位田君が代読した。名張地方の旧藩主藤堂高伸さんは、津市のラジオ三重の支配人をしているので、式の模様をラジオ・ニュースに録音させ、又、式のあとで、私と土地の県会議員との名張市についての対談を三十分ほど録音し、翌日放送した。
 祝電が九十何通来ていて、その披露もあった。川崎厚生大臣、三重県知事、野村捕物作家クラブ会長、二十七日会の白井喬二、三重出身作家丹羽文雄、田村泰次郎の諸君のほか、探偵作家クラブ大下、木々、角田、城の諸君や、二十七日会の諸作家などが主な人々であった。角田喜久雄君の祝電はなかなか凝っていて「故郷に錦を飾る人は多し、されど石を飾る人は稀なり、人徳のゆえん」というので、これ以上長文のものも幾つかあったが、一番目立っていたと見えて、除幕式を報じた新聞記事の中にも引用されたほどである。
 当日は朝日、毎日、中部日本、伊勢新聞などの支局の人が来ていて、翌日のそれらの地方版には、除幕式の記事と写真が大きくのせられた。名張市で出している伊和新聞は予報と当日の記事とを詳しくのせた。そのほか茶話風の記事では東京新聞の「馬耳東風」、毎日新聞中部版の「雑記帳」、名古屋タイムズの「茶話」、伊勢新聞の「灰皿」などが生誕碑のことを書いた。

インタビューを受ける乱歩さん

式は十時からはじまって午前中に終り、桝田医院の二階広間で来会者にウナドンの中食が出され、午後は発起人一同の案内で近くの名所「赤目四十八滝」を見物した。伊賀上野市から式に参列して下さった川崎秀二君の母堂泰子さんも、見物をつき合って下さった。

生誕碑除幕式
桝田医院の二階広間で来会者にウナドンの中食が出された

随筆には出て来ませんが、昼食の後、赤目四十八滝に向かう前に、辻せきさんを訪ねてしばらくお話をしたことがせきの日記に書いてあります。

辻せきの日記


昭和三十年十一月三日 せき当日のさまをしるす
去る年 元横山文圭医師宅借家に平井さんと申す人、郡役所つとめの方あり。明治二十七年一男子をもうけ、体格見事に 妾母よしえ 出産の世話をなし。よろこびて居りしも 父親、轄さのため名張を去り、その後音信普通のまま。数年後東京住い、小説家平井太郎さん江戸川らん歩の名をあらわしも、生地を知らぬ淋しさ思う内、時来たり、名張へ五十八年目来車、早速横山を尋ねしも家主かわり、元の住室知る者のなき故、岡村繁次郎、冨森自転車屋の案内にて私の許へ見え、突然ながら懐かしの知る所を語り。多忙の折から

せきの日記

短時にいとまごい、その節生地記念の碑をやくし、有志どりょくの末、当主桝田医院庭内へたち、十一月三日盛大なる除幕式をおこない、終わりて後
妾許へたずねられ、妻君と友人に案内、岡村、富森、横山省一 二階にて面語 おちか(せきの次女ちか)茶のてまい、あい子(せきの孫)茶のはこび
ひたしき席におりゅう(辻安茂の妻、里ゆう)妾の造る人形持ち出した所、ふと恥ずかしき夢か寝言の筆が目にとまり、短冊と筆を与えられ、余儀なく悪筆を書きましたは
    おいたれど まつり気ぶんの
     うれしさは 太鼓の音もかわり
              あらざる

せきの日記

かねてより
  くいてせんなき悪筆も 今の死のきわ
   花をさかせり

目ざめしてゆうべのゆめをつずらんと
   筆をとりたが あじの
         いでざる

翌四日は、講演廻り、中学校二つで、二十分ずつ、名張警察署で三十分、高等学校で一時間話した。いずれも探偵小説の話。高等学校の話が一番うまくでき、大講堂一杯の男女生徒が謹聴してくれた。これを土地の新聞社がテープに録音して、連載読みものにした。あとで卒業期の女生徒十余名と座談会をやった。宿へ帰ってから、その女生徒諸嬢がおしかけて来て、色紙や短冊を書かされた。その中に名張乙女がいたかどうか? 一人、二人いたようである。
 翌五日は、発起人たちの案内で、やはり近くの名所、香落渓(こうちだに)を見物した。
 ここは延々二里にわたる渓流沿いの山峡で、両側に岩山が屹立し、そのことごとくの岩山を紅葉が覆っている。雄大の風光、赤目四十八滝の比ではない。国立公園にしてもよいと思ったほどである。

生誕碑除幕式
赤目四十八滝


中学校での講演会
中学校での講演


香落渓、兜岩

これで予定のスケジュールを終ったのだが、発起人の諸君は、建碑を思い立ってから、除幕式をすませるまで、大変なご苦労であったと思う。書店主の岡村さんは、親戚の二人の若い人を動員して、絶えず私を中心とする写真をとらせたり、私の宿を一個所では退屈するだろうと、一晩は別の宿にしたり、私にたくさん色紙を書かせて寄付者のごきげんを取ったり、万端行き届いた心配りであった。
 又、岡村さんは、土地の菓子屋に案を与え、この機会に乱歩せんべい「二銭銅貨」というものを発売させ、これを来会者へのお土産にしたが、今後は名張名物として、一般菓子屋に卸し、又、駅の売店でも売らせるのだそうである。昔の二銭銅貨よりはちょっと大きいけれども、円形の固い瓦せんべいで、表面に二銭銅貨の図案が焼きつけてある。それをビニールの袋に入れて紙函に納めたもので、一函百円と五十円と二種類ある。
 たとえ生誕碑にもせよ、自分の碑の除幕式に列するなんて、あまり例のないことだろうと思うが、名張市というところが、従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う。市の企画とか、個人の金持の企画とかいうのではなく、町の人々が、自発的に六十年もごぶさたしていた私に対して、こういう好意を見せて下さったのは、実にありがたいことだと思っている。

生誕碑除幕式

乱歩さんはお土産の二銭銅貨が気に入ったのか、結構な説明を書いています。残念ながら今は作られておらず、どこかのお菓子屋さんが復刻版を作ってくれるのが待たれます。

このように名張の市民の自発的な活動が実を結んだのが生誕碑の建立だと思います。これからも市民による自発的な活動が続いていくことを期待いたします。

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