夜の片隅に場所を借りる

〝新宿ゴールデン街でひとりで遊べるようになる〟のが私の20歳の頃からの目標だった。お酒との付き合いはもう長くて、今となっては依存症に片足を突っ込んでいる自覚はある。「なんでそんなにもお酒を飲むの?」には敢えて辿り着かないようにしている。だって理由や意味が分かってしまったら終わっちゃうから。誰かに聞かれたら美味しいからとか楽しいからとかを適当に答える。前述の目標が叶ったのは、23歳のいつかの夜だった。(自分で思っていたよりも早く果たせた)「今夜、行くぞ。」って本当にバカのような気合いで、だから早い時間から新宿に繰り出してウォーミングアップのために選んだ2丁目のカフェで夕飯のガパオを食べながらビールを飲んでいたら隣の席では女性同士のカップルが揉めていた。

最初に入るお店を選ぶために、全部の通りを3周した。1周目で良さそうと思ったそのお店は全体がオレンジ色で何となくポップな雰囲気で、開いた扉の奥には低い椅子に形の綺麗な脚を組んでしゅっと背筋を伸ばして座っているドレス姿のママがこちらを見ていて、古いレコードジャケットみたいだった。「こんばんは…」とおずおずと入っていくと「あんた、3周目で決めたのね!何周するのかしらって思って見ていたわ!」と笑って迎え入れてもらった。レコードのジャケットの主人公と目が合ったような気がしたのは気のせいじゃなかった。「ゴールデン街が初めてなんでしょう?」と聞かれて素直に「そうなんです、ずっと来てみたくて…」と返すと、「よくウチに決めたわね!」とまた笑ってくれた。そうしてママは自分がこの店の二代目であることや2階が衣装部屋になっていること、ゴールデン街で若い女がひとり遊びをするための心得なんかを教えてくれて、そのうちに口開けには私だけだったのが気付くとカウンターに並んだ7個の赤いハイスツールは埋まっていて、そのスムーズさに感動をした。ママに「行ってらっしゃい!また来てね!」と送り出されて、隣に座っていたおじさんと2軒目へ流れた。私の初めてのゴールデン街のママは、頗る美しい男の人だった。

2軒目のお店は細くて急な階段を昇った先にある小料理屋さんで、めちゃめちゃ喋りながらずっと手を動かす作務衣を着た元気な女将さんが切り盛りをしていて、お料理がどれも美味しかった。「うっそー?ゴールデン街はじめてなの?!それにしては馴染んでない?!良いわね!」なんてサービスをしてもらって、私の年齢の話の流れで女将さんの年齢に波及して彼女が25歳だって知って驚いた。いやいやいや!あなたのその貫禄と仕事ぶりこそ嘘じゃろ??って思った。(言わなかった)そこでは私だけが新参だったのに、とても楽しかった。「じゃあ行きましょうか!」って、奥の席に私よりもきっと数時間前からいたご夫婦と、みんなの会話の中で『界隈で今いちばん勢いがある』ってそこかしこで噂になっているらしいお店へと梯子をすることになって、3件目のそのバーにはそれからしばらく通うことになった。ゴールデン街へはもう20年ぐらい遊びに行っていないのだけれど、こんな思い出しが発生したので調べてみたら屋号はまだ残っていたから勝手に少しだけ嬉しい。



2軒目の小料理屋さんには、談笑の合間に流しのお兄さんが立ち寄った。「おぉー!これが!!あの!」となってワクワクしている私以外のお客さんたちは入って来た彼に対して少しだけ面倒そうだったのに女将さんだけが「いつもありがとうね!いつものやってよ!」とガスコンロのお料理の具合を見ながら声を掛けて、その曲がきっかけで「じゃあコレもお願いします。」と初老の常連さんがメモを渡していて、私はまたもや「おぉー、、なんかで見たことがあるやつそのまんまだ……」ってなった。3曲か4曲を披露して彼が退席をした後にはみんなが、「次はあの店なんじゃない?」とか「いや、今日は水曜日だからあっちだろうね。」とか「うんうん。あーでも、あそこのあの店は彼を呼ぶらしいよ?一緒に歌いたいお客さんが多いんだって。」「へー、、なんかそれ新しいっすね。」なんていう会話をしていた。

お兄さんが誰の何の曲を唄ったのかは残念ながら忘れてしまったのに光景だけが今でも強烈に残っている。逆さまのビールケースに腰掛けて良い音でギターを弾き語る。5人で満席の小さな店の隅っこでともすれば誰にも求められていないかもしれないライブ。私は彼の声をきいていた。束の間の場所を借りて「僕は歌っているだけなんで、そのままお酒をのんでお喋りをしてもらって大丈夫ですよ。歌っているだけなんで。」っていうスタンスで、あっちやこっちの晩にそっと置く演奏と歌唱。これはものすごく不毛で、ものすごい胆力と、複雑で独特でどうにもならない表現欲求の為せる技なんじゃないだろうかって思ったから、私はゴールデン街で遊ぶ夜には「今夜は流しのお兄さんは来るかしら」ってほんのりと期待をしていたのだけれど、その夜以来、流しのお兄さんに遭遇することはなかった。とはいえ私が新宿で遊んでいた期間は2-3年ぐらいで短いし毎晩ではなくて週イチぐらいだったし、実は流しのおじさんやお爺さんが居ることも後で知ったし、大体いつも同じ店にばかり通っていたのだから致し方がないのだ。


あのお兄さんは、
今でもギターを鳴らしているのかしらね。


(羆・45歳)


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