『私とあなたが違うこと』

齢も50に近づいて、いや、まぁ、もっと言うと若い時分から私は〝懐かしい〟に弱い。「私は」なんて宣ってしまったけれど〝懐かしい〟に抗える人って実はそんなにいないんじゃないかしら。それに見舞われた時の受け止めや処理や反応や作用はきっと人によるだろうから、会話をしようとチャレンジをした時には全部が同じ〝懐かしい〟になりがちなのが正直もどかしいけれど、適度な〝懐かしい〟は心の滋養強壮にとても良いと思っている。

少し前に、30歳を過ぎてもうだつの上がらないミュージシャンが主人公の映画を観ました。知っている焦燥や迷いや享楽や人生の分岐が低い温度でリアルに描かれていて、私は主人公の彼女のように自分の才能を信じたり疑ったり、少しだけ認められたりしながら日々の道を獣みたいにおずおずと往くような生き方をしていたわけではないのけれど、もうなんか懐かしいを通り越してヒリヒリとした甘やかさがあった。

経験には頼り甲斐しかないのに自分の実時間を重ねれば重ねるほど寄り掛かることが難しくなって、寄り掛かり過ぎると歪んでしまうことを知っているから横に退けておくと何かの拍子にパンって目の前に現れて、瞬間取り扱いに困ったりして全く可愛いやつなんですよ〝懐かしい〟は。油断をすると、すぐそこにいつでも居る。


直近の娘氏との喧嘩で「お母さんは私みたいになったことがなかったの?あるでしょう!?(怒)」と言われて、彼女のアプローチの精度の高さにハッとした。私は、彼女と私のようなシチュエーションに立ったことはなかったけれど衝動はきっと同じで、ちゃんと受け止めなきゃいかんと思った。立ち位置の理不尽を家に発生させないことと、この家で暮らしている全員が健康であることを信条にしていたから、実を言うと彼女の質問には瞬間上手く答えられなくて勢いで秘密を少しだけ暴露してしまった。君とは真逆の歴史。反省。これはリカバーを出来ると思っている。もしもあの瞬間にバレてしまったとしても、私とあなたが違うことをこれからの未来に提示できるし、する所存。いやらしい言い訳しかしていないね、御免ね。これについてはもう2度とやらない。子育てはずっと実験で楽しい。ギリ高齢未満の出産だから、お母さんが年増なのはそのままそうだとして「楽しい!」を一緒にやっていると彼女の楽しいと私の〝懐かしい〟がリンクすることが時たまある。(これマジよ?)リバイバルみたいなことかもなんだけど繰り返しではないし、その懐かしさを伝えたり伝えなかったりする。


私と彼女の毎日は、いつも全部が新しいで続いていく。ほんの少しの懐かしさを伴いながら。

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