私を手放す

ネルケ無方さんという禅僧が書いた本を読んでいる。
この人はドイツ出身で、今は日本で禅僧をしている。
この人の書く本は、ほかのお坊さんのものとは違う感じがする。教え諭す系ではなく、あなたはどう思うのか?を問われている感じがする。

以前から心を穏やかにする手段として、坐禅に興味があった。
それで、ネルケ無方さんの「ただ坐る」という坐禅の本を読んでいる。
読んでいて、ふと思ったことがある。本の感想とは少し違うけど書き留めておきたい。


坐禅は何のためにするのだろう。
自分のこころを穏やかにして、自分が幸せになるためだと思っていた。
坐禅は執着を手放して悟るための行為。
とすると、「私が穏やかになりたい」という考えも手放して、ほんとうに「ただ坐る」のが坐禅なのだろう。
わたしが、じぶんが、を手放す。
思えば私は「私の時間を邪魔されたくない」だの、「私だって休みたい」だの、私ワタシ・・そればっかり。
わたしが、を手放して目の前の人、目の前の物事に向き合うこと。
人生の折り返し、もう「自分が、私が」を手放して、もう少し周りの人、物事に関心を持つように思考を変えたいと思った。
例えば読書中に子供が話しかけてきたら、「私が本を読んでいる」を手放し、子供の方に全力で向き合う。
今までは、「本を読むのはいいことだし私のためになる。時間を捻出して読書してるのに、何で今話しかけるのか」なんて考えてしまった。
ここの、「私」を放り出して、ただ目の前のことに向き合う。それもまた禅なのではないだろうか。


なんてことをとりとめもなく考えた。
人に尽くしすぎると疲弊する。
ずっとそう思って、自分が倒れてしまわないように色々防御してきた。
でも、そもそもの自分を放り出したらどうだろうか。
執着とは物に対する執着、人に対する執着と色々ある。灯台下暗しで、自分に対する執着というのもあったのだなあと今更ながら自覚した。
あと、本の中で「迷いと悟りは表裏一体」とあった。なんだかこの言葉に救われた気がする。

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