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10万円の元手から株で億り人をめざします(28)「南海トラフ臨時情報(巨大地震注意)」が発表されました。また、イラン、ヒズボラがイスラエルと戦争になりそうです。地震や戦争になれば、株価が暴落します。私は、どう判断したのでしょうか。

「南海トラフ臨時情報(巨大地震注意)」が発表されました。
もし、南海トラフ地震が起きたら、日本の株価は暴落します。

イラン、ヒズボラが、イスラエルと戦争になりそうです。
もし、戦争になれば、イスラエルと一心同体であるアメリカの株価が下がります。
アメリカの株価が下がると、世界中の株価が下がります。
また、中東地域で戦争が起きると、原油の価格が上がります。
原油の価格が上がると、すべての価格が上がります。
結果として、不景気になり、株価が下がります。

私は、考えました。
今、持っている株を全部売って、現金化しようか。
実際、先週末、株価の値動きを見て、暴落することを察知し、すべての株を現金化しました。
察知した通り、暴落しました。
これも予想した通り、すぐに復活しました。
おかげで、まったく損しませんでした。
今回も、現金化したほうがいいのか。
しかし、地震も戦争もなければ、儲かっている株を売って、もう一度買うことは損が出ます。
株を保有していない間も株価が上がれば、買った時よりも、高い価格で株を買わなければなりません。

しかし、万が一、地震や戦争があれば、株価は、最悪、半額以下になります。大損です。

思いついたことは、天下分け目の関ヶ原の戦いで、徳川家康がしたことです。
家康は、自分の息子の徳川秀忠を大将とする最精鋭の徳川軍を、途中の信州の真田幸村との戦いで遅れさせ、中山道において、関ヶ原の戦いに参加させませんでした。
そのため、関ヶ原の戦いで、徳川軍は、ほとんど、豊臣秀吉の家臣たちでした。
この秀吉の家臣を味方につけて、勝ったのです。

なぜ、家康は、最精鋭の徳川軍を温存して中山道に置いたのでしょうか。
私は、関ヶ原の戦いで負けたときのためだと考えています。
関ヶ原から江戸に帰る道は、東海道と中山道しかありません。
東海道は、秀吉の家来たちの領地です。東海道では殺されます。
中山道以外に、生きて帰れる道はありません。
そして、最精鋭の約3万8千もの大軍を温存しました。
これで、万が一、関ヶ原の戦いで負けたとしても、生きて江戸に帰ることができ、再び、西軍と戦ができる体制を残しました。

この家康の故事に習い、持っている株の半分を売って利益を確定しました。
もう半分の株は、地震も戦争もなかった時のために、そのまま残しました。
株を売って得た現金で、日本以外の国の株を買う予定です。
リスクを分散するためです。

ちなみに、家康は、大変な読書家で、戦場でも本を読んでいたそうです。
愛読書は「史記」です。
恐らく、家康は、項羽と劉邦の劉邦の生き方を学んだのだと感じます。
関ヶ原の戦いは、項羽と劉邦の最後の戦いに似ています。

項羽は戦がうまく、負けたことがありません。
劉邦は、項羽に負け続け、山に隠れます。
劉邦は、山の中で、項羽に反対する、全国の諸侯を味方につけます。
こうして、項羽軍に勝てる体制をつくり、取り囲み、勝利します。

ちなみに、「四面楚歌」という故事成語は、この時の項羽のことを指しています。
「楚の項羽が漢の高祖(劉邦)に垓下(がいか)で包囲されたとき、四面の漢軍の中から楚国の歌がおこるのを聞いて、楚の民がもはや多く漢軍に降服したかと思って驚いたという(「史記‐項羽本紀」の故事から ) 敵の中に孤立して、助けのないこと。 周囲が敵、反対者ばかりで味方のないことのたとえ」

それまで負け続けていても、最後に完膚なきまでに勝てば、全勝になります。
劉邦は、数百年続く、漢をつくりました。
家康は、信長、秀吉の家臣として仕え、屈従をなめてきました。
関ヶ原の戦いで最後に勝ち、天下をとります。家康は、300年続く、徳川の世をつくりました。

また、家康は、関ヶ原の戦いの前の1か月もの間、江戸城にこもり、全国の大名に手紙を出し、味方につけていきます。
劉邦のようです。

西軍の大将の毛利輝元も味方につけていました。
そのため、毛利輝元は大阪城から動かず、秀吉の後継者の豊臣秀頼も大阪城から出ません。
豊臣秀頼が関ヶ原に来れば、豊臣秀吉の家臣だった大名たちは、家康を裏切る可能性がありました。
そのため、家康は、秀頼を大阪城にいさせる必要があり、それができるのは毛利輝元しかいませんでした。
三成は、秀頼と毛利輝元が来るものと考え、そのための布陣を考えていました。
三成は、毛利輝元ら多くの大名に裏切られました。その恨みの手紙が残っています。

有名な小早川秀秋の裏切りも事前に約束していました。この裏切りが、関ヶ原の勝敗を決したとされています。

こうして、戦う前に、家康は確実に勝つ体制をつくっていました。

では、なぜ、秀吉の家臣の大名は、家康に味方したのでしょうか。皆、秀吉にかわいがられたものたちです。

関ヶ原の戦いの1ヶ月以上前、家康は、栃木県小山市で、福島県の上杉討伐に向かう途中、石田三成が家康討伐のために挙兵したとの情報を得ます。
そこにいた大名は、秀吉子飼いの大名たちです。
家康は、彼らに、自分につくか、三成につくか、各人が決めて欲しいと言います。

大名たちは、家康と石田三成、どちらが良いかを考えました。
三成は、秀吉と同じことをします。
秀吉の時代、検地されて正確な石高を調査され、自分の領地に秀吉の直轄領をつくられ、その分の石高をとられていました。
すべてにおいて、中央集権が行き過ぎて、息苦しさを感じていました。
家康に味方した大名たちは、家康は三成ほど厳しくなく、各大名の自由にさせてくれると考えました。
言ってみれば、三成よりは家康のほうがマシという消極的な理由でした。
こうして、秀吉子飼いの大名たちは、家康の味方になりました。
これが、「小山評定」と呼ばれます。
ちなみに、私は、小山市生まれ、小山育ちです。
家康を身近に感じています。

江戸幕府を開いた家康は、各大名の自由を許しました。
西国不介入として、関西より西の外様大名は、かなり自由でした。
そのため、各地の名産品ができたり、交易や貿易が盛んになり、経済が活性化し、大名は潤いました。
薩摩藩は、沖縄を通して、中国と貿易し、富を蓄えます。そのため、豊かな薩摩藩が明治維新の中心となります。

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桃色あなぁきすと
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