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異世界の街角:黒いオーク族の丘にて紡がれる物語
前書き
夜の草原に響く風音、遠くに見える点々とした焚き火の明かり――黒いオーク族の集落は、荒野の中にひっそりと息づいています。
そんな一夜の物語、そこに生きる戦士と異郷から来た女性、そしてその間に生まれた幼き命が織りなす物語をお届けします。
この話は、異世界の片隅で紡がれる小さな日常の断片。彼らの生きる姿を通じて、荒野の強さと温もりを感じていただければ幸いです。
夜の風が、草木と土の匂いを運んでくる。ガル・ゴーウェンは暗い草原の中腹、なだらかな丘の頂で膝をついていた。その黒々とした肌には浅い傷が走り、その奥底には、過去に討ち倒した数知れぬ獣や、退けた敵たちの影が潜んでいる。彼が背負う大斧は光を帯びず、朧な月明かりを受けて鈍く湿った艶を放つばかりだ。風が吹くたび、革紐でくくった髪の先が微かに揺れ、ふところの中で、硬い筋肉が音もなく弛緩する。
黒いオーク族の集落は、この丘から見下ろせる距離に点在している。焚き火の薄い光が、点々とした蛍のように揺らめいている。ガルは斧を脇へ置き、遠くから流れてくるわずかなざわめきに耳を澄ませた。荒れ地に生える背の高い草が擦れ合い、いずこからか虫の羽音が響く。そのすべてを受け止めるような静寂が、この夜にはあった。
彼はふと振り返る。その背後に、アメリアが佇んでいる。彼女は人間の女で、オーク族には見られない淡い肌を持ち、瞳には薄青い光が潜む。集落に溶け込むような服を身につけてはいるが、その腰に巻きつけられた革の帯や、首元に残る奇妙な薄金色の板の欠片が、どこか異なる世界の気配を醸し出している。大斧や粗野な棍棒ではなく、彼女が重視するのは小巧な刃や、細やかな金属片を仕込んだ細長い鞘――この辺りのオークには馴染みのない形状だ。ガルは、初めて彼女を見たときのことを思い出す。荒れた踏み分け道で、遠来の猛獣のように息を荒げ、ひび割れた何かの欠片を強く握っていた彼女。その物が何であったか、ガルにはわからない。だが、彼女の目は当時から鋼線のように研ぎ澄まされており、恐怖を孕みながらも崩れ落ちない不思議な意志を放っていた。
今、アメリアは黙したまま、ガルの隣へゆっくりと腰を下ろす。彼女の指先が、ガルの手の甲をすっとなぞる。その仕草はオーク族の女達よりもずっと静かで、どこか考え深い。彼女はときおり、何か言葉を飲み込むように口元を引き結ぶ。それは彼らの言語にはない音を含んだ声を発する前触れなのかもしれない。ガルは無理に問いただすことはしない。彼が知りたいのは彼女の過去ではない。今このとき、彼女と共にあるという事実、それが重い戦士の鎧を解いてくれる、かすかな安らぎだった。
視線を移すと、少し離れた小さな小屋、その扉の隙間から揺れる灯りにヴァルターの寝息を感じることができる。まだ幼い彼は、黒いオークの血を受け継ぎながら、同時にアメリアの柔らかな髪色と、どこか鋭い光を帯びた瞳を持つ。彼は集落の子供たちと泥遊びをし、走り回り、時には木の枝で剣の真似事をする。ガルはその遊ぶ姿を見ながら、いつの日かこの子に狩りの呼吸、戦場での足運び、風向きや獣の気配を読み取る術を教えようと考えるのだが、同時にアメリアが見せる独特な指使い、そして弦を張るように矢を番える手つきを思い出す。彼女はオーク族の弓とは異なる仕組みの武器を扱っていたのか――それとも別の戦い方を知っていたのか。ヴァルターはその両方を受け継ぎ、新しい道を歩むかもしれない。
「俺たちが狩りに行く日は近い」ガルは低く呟いた。
アメリアは顔を上げる。その瞳は、夜の底に沈む星を映すがごとく澄んでいる。何かを尋ねるように微かに首をかしげるが、彼女は不用意に言葉を漏らさない。ガルは続ける。
「今年は南のほうで奇妙な光が上がり、人間たちが増えたという話がある。開拓者、旅人、商人――何と呼ぶべきか分からぬが、俺たちの猟場に踏み込もうとしている。血が流れるかもしれない」
アメリアは細めた目で、遠くの闇を見つめる。ひょっとすると、彼女はこういった地平線の彼方から迫る脅威に慣れているのかもしれない。重い金属塊を淡々と扱う兵士たち、黒光りする車輪、あるいは見たことのない規律――そういったものを思い出し、今ここで自分がいる場所に微かな違和を覚えているのではないか。ガルは、彼女の硬く握られた拳の震えに似たものを感じ取り、それ以上は何も言わなかった。
翌朝、集落の周囲には浅い霧が降りていた。ガルは太いロープのような筋肉を纏った腕で、背負い袋に狩りの用具を詰め込み、柄の長い斧を確かめる。アメリアは寝起きのヴァルターを抱き上げ、息子の耳元で何事か小声で囁く。その言葉はガルの知る発音ではなかったが、母親らしい柔らかな響きを含んでいた。ヴァルターは眠たげな目を擦りながら、父を見上げる。ガルは微笑み、彼の短い髪をぐしゃりとかき混ぜる。
「お前はまだ子供だが、すぐにわかる日が来る。狩りの呼吸、槍の間合い、そして大地の声……すべて教えてやろう」
アメリアは黙って微笑む。その微笑には、たとえ荒野のオークたちが百年かけても得られぬかもしれない、奇妙な確信の影があった。規律と冷静、それでいて子を愛する深い情。ガルは、その源泉が彼女の背景にあることを知っている。だが、問いただすことはしない。彼女が今ここにいて、ヴァルターを抱いている。それでいい。
日は昇り、ガルは狩りに出た。大地の息遣いを感じながら、足跡と風向きを読み、草原の起伏に身を溶かし込んで、獣を追う。その背中を見送ったアメリアは、周囲を警戒するように視線を走らせる。金属片が僅かに擦れ、鞘の中で硬質な音を立てた。彼女はそっと鼻から息を吐くと、ヴァルターの手を引いて、集落の焚き火の方へ歩み出す。そこで彼女はオーク族の女たちが準備する粗い朝食を手伝い、幼い子供たちと目を合わせ、静かな微笑みを浮かべる。彼女の所作はどこか異質だが、それは敵意ではなく、未知を孕んだ柔和な距離感として周囲に受け入れられつつあった。
日が傾き、ガルは狩りから戻ってきた。血と埃にまみれた肩口には浅い傷が走り、斧の刃には獲物の生臭い膜が薄くこびりついている。彼はグレーウルフを仕留め、その毛皮と肉を背負って帰ってきた。集落が彼を迎えると、アメリアが近づき、彼の脇腹に触れる。その仕草はわずかに訓練された衛生兵のように的確で、男たちが酒で痛みを紛らわせるだけの治療とは別の理がそこにあるかのようだ。ガルは一瞬、その指先に何らかの「旧き習い」を感じたが、やはり何も問わない。彼女が何を知り、何を捨て、何を抱えているか――それは今、この黒いオークの集落では重要ではない。大切なのは、彼女がここで子を育み、ガルと共に荒野を生き、時に牙を剥く世界に打ち克つ意思を持っていることだ。
夜半、ヴァルターが深い眠りに落ち、ガルとアメリアはまた丘に腰を下ろす。風の音が二人の間を通り抜ける。遠方には燻る火と、小さく響く金属音。人間たちが、あるいはさらなる侵入を企てているのかもしれない。しかしガルは恐れぬ。彼には斧がある。狩りの勘がある。そして、いつしか傍らには、異郷の武具と規律をその身に秘めた女がいる。
ガルはアメリアの手を握る。彼女は微かに微笑んだ。その笑みには、遠く知らぬ地で育まれた信念と、今この荒野で手に入れた新しい家族への愛が、奇妙な均衡を保ちながら混じり合っている。ガルはその微笑みを受け止めて、低く呟く。
「ヴァルターには、俺たち両方から学ぶべきことがある」
アメリアはただ頷く。その仕草はほんの少し、かつてガルが見たこともない整列した兵士たちの姿を想起させたが、ガルにとってそれはもはや重要ではなかった。今、彼らはこの土地に根を下ろし、嵐が来ればそれに備え、獣が出れば狩りをする。鉄と革紐、独特な武器と柔らかな子守唄――それらが混じり合い、新たな物語を紡ぎ始めている。
夜の風は、静かに丘を吹き抜けていく。
後書き
異世界の片隅、荒れ果てた大地の中で、オーク族と異郷の女が新たな物語を紡ぎます。この物語は、異なる文化や背景を持つ者たちが共に生きる姿を描いたものです。
異世界の日常を通じて、読者の皆さまに新しい視点や物語の可能性を届けたいという思いで執筆しました。ぜひ、彼らの静かで力強い物語の続きを想像してみてください。
関連情報
墓太郎の連載SS「異世界の街角から」
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