【小説:盛岡】みえないさくら (3)最終章
四 自己ベスト
次の月曜日には学校のソメイヨシノも満開になっていた。
健児は昼休み時間に進路指導室に行った。
「おう、田岡、珍しいな」
高田はカップラーメンを食べたらしく、部屋にはその匂いが漂っていた。
「先生、点字受験ができる情報処理系の学部がある大学を調べて欲しいんですけど」
健児は惑わずに言った。
「そうか、やっとこさ動き出したか」
「はい」
「で、どこ辺りがいいんだ。盛岡か?仙台か?それとも東京か?」
「どこでもいいです」
「よし、いい覚悟だ。それじゃ情報処理系を片端から当たってみよう」
「よろしくお願いします」
進路指導室から出るとき、健児は徒競争のスタート直前のような緊張感を感じていた。
その日、寄宿舎に戻ると、久しぶりに朱実からのメールが来ていた。健児はそれを読むと、すぐに明弘の部屋に行った。
「俺、大学に行こうと思う」
「そっか。で、理療系か?」
「いや、情報処理系だ」
「へえー。まあお前だったらどこかに入れるんだろうけど、情報処理行って何すんだ?」
「まだはっきりとは分からない。でも、パソコンで俺に何が出来るのかを勉強したいんだ」
明弘は健児にいつもと違う力強さを感じていた。
「ふーん」
「俺はお前と違って全く見えない。だから出来ないことがたくさんある。この五年間もずっと学校ではお前に頼りっぱなしだ」
「そんなことどうでもいいけど」
「この間の土曜日、俺はタカッチに乗せられて、盛高の深田朱実の応援に運動公園に行ってきた」
明弘にとっては初耳だったが、嫌な気分はしなかった。
「ほー。そいで?」
「俺は深田を見たいと思った」
明弘の心に痛みが走った。痛切にその気持ちが分かり、思わず込み上げるものを感じた。
「でも俺には見えないんだよ。当たり前だけどな」
「分かる…」
搾り出すような声だった。
同じ視覚障害者でも弱視と全盲、特に生まれつきの全盲とでは全くハンディが違う。それを誰よりも知っているのがやはり視覚障害者で、さらに今の健児の気持ちを最も理解できるのが、自分も進行性の視覚障害を抱え、全盲の影に怯えることもある親友の明弘だった。
「だからその分、俺は出来ることを増やしたいんだ。一つでも多く。そして、俺の出来ることを増やすことは、他の全盲の人の出来ることを増やすことにも繋がるかもしれない。そのために大学に行く」
「…そうか」
明弘は、やっとでそう言うと、一呼吸おいて今度はしっかりした声で言った。
「俺も考えたけどやっぱり、専攻科に行こうと思う。加奈子ともこの前の金曜日に石割桜を見に行きながら話したんだ。出来ればいつまでも一緒にいたいなって。そのためにも俺に出来る範囲の安定した仕事に就きたいんだ」
「そうか」
健児にも明弘の気持ちがよく分かった。
「深田朱実はどんな顔をしてるんだ?」
少しためらって健児は訊いた。
「俺も近くでよーく見たこと無いからな。でも可愛いと思ったぞ。背もスタイルも普通だな。髪は肩ぐらいまでかな。色白で目は大きかったような…、うん!美人って言うより可愛いっていうタイプだな、あれは」
明弘なりに精一杯説明した。
「そうか。ありがとう」
スタイル、というありきたりの言葉に健児の頭には思わず血が上り、余り経験のない胸の高鳴りを感じ、戸惑ったが、顔同様仁それ以上のことを想像することはやはり出来ず、結局痛みのような虚しさだけが残ったが、改めて明弘には「親友」を感じ、心から礼を言った。
「そろそろ本番のスタートかな」
明弘が言った。
「そうだな」
盲学校と盛岡高校のちょうど中間に大きな県立の総合病院があった。
次の日の放課後、健児はその病院の敷地内にある公園に来ていた。健児が白杖を使って一人で来られるギリギリの範囲内だった。
前日の朱実からのメールは、「会って話がしたい」という内容で、健児が場所を指定したのだった。そこにも桜の木があるのを知っていた健児は、制服のまま少し早めに行って満開の桜を楽しんでいた。
「うわー、ここも桜が満開!」
時間通りに朱実がセーラー服姿で来た。二人きりで会うのは初めてで、やはり健児の鼓動は高まった。
「この前は気分を悪くさせるようなメール送っちゃって本当にごめんなさい」
健児には朱実が頭を下げているのが分かった。
「こっちこそごめん。疲れてたからかな、自分でも何であんな返事をしちゃったのか分からないんだ」
健児も頭を下げた。
「それじゃ、もう怒ってない?」
「ああ。そもそも怒る理由なんて何も無かったんだ」
「よかった…」
朱実の安堵した声に健児は何とも言い難い愛しさを感じた。
「土曜日は応援に来てくれてありがとう。本当にうれしかった」
高総体の時と同じ明るい声だった。
「クラブはもういいの?」
「もう引退。運動不足にならない程度に顔は出すけど、あまり出ると後輩の邪魔になるし、顧問の先生からも『勉強しろ』って言われるの」
「へえー、そういうもんなんだ」
「そういうもんなの」
「そういう体育会系や進学校のルールは全く分かんないからな」
「でね、話なんだけど」
朱実はいきなり切り出した。
「立志大学って知ってる?」
「知ってるけど。京都にある私立だよね」
「そう。私の行きたい教育学部も健児君がずっと前に興味があるって言ってた情報処理系の学部もあるの」
朱実が教育学部志望だとは、初めて知った。
「でも、京都大学じゃないの?」
「センター試験は受ける。でも第一志望は立志大学なの。すぐ近くに私の大好きな龍安寺があるし」
龍安寺には行ったことはないが、日本史で習って、枯山水という様式の庭園で有名なのは知っていた。「枯山水」にはやはり漠然とだが空虚なイメージがあった。
「一緒に受けようよ」
素直にうれしいとも感じた。だが、受験は健児にとってそんな簡単な問題ではなかった。
「俺程度の実力で入れないだろ。それに…、点字受験ができるかどうか…」
ハッとして朱実はしばらく黙ってしまった。
「ごめんなさい。また、健児君を傷付けるようなことを言って。私、今まで健児君とメール交換しながら何を勉強してたんだろ。本当にごめんなさい」
「勉強」という言葉に一瞬心が痛んだが、気を取り直して健児は言った。
「いや、うれしかったよ。うそじゃないよ。立志大学、調べてみるよ。それより何よりまずは勉強しなきゃ」
「そうだね。頑張ろうね」
朱実も気を取り直して言った。
朱実と別れて寄宿舎に向かって歩きながら健児は「立志か…」と呟いた。
ゴールデンウィークに入る前の日、クラスのみんなが帰省して行った後、健児は教室に残り、パソコンで様々な大学を検索して入試要項を調べながら、飯坂を待っていた。
「健児、高田先生から聞いたぞ。大学に行くことに決めたそうだな」
うれしそうにそう言いながら飯坂が入ってきた。
「はい。タカッチにも言おうと思ってたとこです。ただ先生達にばっかり頼ってられないな、と思って今いろいろと調べてました」
「昨日から俺も調べてるよ。ただ、やっぱりベテランの高田先生は凄い。昨日も進路指導室で、パソコンいじりながら、あちらこちらに電話してたぞ」
「そうですか」
健児は高田に心の中で感謝した。
「授業の態度もだいぶいい感じになってきた。エネルギーが出てきたみたいだな」
「そうかもしれません」
「そうか」
しばらく飯坂が健児の検索の様子を眺めていると、そこに高田が分厚い点字の資料を持って入ってきた。
「二日掛かって調べといたぞ。この中から休み中にでも受験するところを選べ。もう少し調べてみるが、だいたいそんなとこだと思う。そこに無い大学でどうしてもっていうところがあったら言え。可能性は低いが、俺が校長を使ってでも点字受験を交渉してやる」
そう言って健児に資料を手渡した。
点字の資料は一枚の用紙に打ち込める情報量が少ないため、墨字の何倍もの厚さになる。それにしても健児が持たされた資料は物凄い厚さだった。
「これを二日間で…」
飯坂が驚いていると、
「進路指導は情報力とスピードが勝負ですよ」
高田は当たり前のように言った。
「それにここは一度に何百人って生徒が卒業していく高校じゃなく、多くても十人程度が卒業していく学校です。こんなときに働かないと罰が当たる」
「ありがとうございます」
飯坂は健児より先に礼を言ってしまった。
「東京から北は意外と少なかったな。関西方面はかなり点字受験が出来て、実際に全盲生が入学した実績を持っている大学が多かったぞ。あらためて東北は遅れているなって、俺も勉強になったよ」
資料が手に渡ってすぐに健児は、飯坂と高田の話を聞きながら資料を読んでいた。全盲の人が点字を読むスピードは、健常者から見たら神がかり的な速さである。
「関西」という言葉に、健児はすぐ「立志」という名前を思い浮かばせた。自分で調べている時は、いきなり「立志」を調べず、いや逆に避けるようにして調べていた。
分厚い資料の比較的前のほうに「りっし だいがく じょうほう こうがくぶ」の名前があった。瞬間的に立ち上がり、
「ありがとうございます。連休中に決めてきます」
二人に向かって深々と頭を下げ、そう言ったが、気持ちはすでに決まっていた。
連休の最終日、寄宿舎に戻った健児の部屋に明弘と友孝が入ってきた。
「おう、どうだった連休は」
友孝が言った。
「珍しく家にばっかりいたな。親も美紀も忙しかったからどこにも行かなかった」
「みんな同じだな」
明弘が言った。
「ベランダ行こうぜ」
友孝がそう言うと、健児が机の引き出しの奥から煙草とライターを、明弘が健児のベッドの下からインスタントコーヒーのビンを持ってベランダに出た。三人とも外から姿が見えないようにベランダのフェンスより低く腰を下ろして煙草に火を点けた。
「俺、連休前にタカッチに進路のことで相談したんだ」
友孝が一息煙を吐いた後、珍しく、真面目な口調で話し出した。
「あん摩が自分に向いてるのか分からないって。タカッチのなんだか演説ってやつを聞いてからいろいろ考えてみたんだ」
「地味だろ、あん摩って。いくつか治療院に行ったこともあるけど、やっぱりどこも同じようで俺から見れば地味だったんだ。殺風景な部屋の壁に人体の解剖図が貼ってあって、あとはカルテを書いたりするための机と部屋の真ん中に診療台がポツンと一つ。こんなおちゃらけた俺が一生やっていける仕事かなって不安に感じてきたんだよ。そしたらタカッチが言うんだ、『あん摩が地味だって感じる気持ちは分からないでもないが、それはお前までのこと。お前から変えればいい』って」
「どういうことだ?」
同じく専攻科を目指している明弘が訊いた。
「地味じゃ無くすればいいって言うんだ。いずれ自分で開業する時には、例えば内装を喫茶店みたいな雰囲気にしてみたり、俺の好きなヒップホップを診療室に流したり、待合室にいる人にはコーヒーを出してみたりとか。好きなCDを患者に持ってきてもらって、それをBGMにかけるサービスなんかもいいんじゃないか、とも言ってた」
「へえー」
明弘が思わず声を上げた。
「名前も『中村治療院』とかじゃなくてあん摩、鍼灸の治療院だということは書き添えておきながら、アルファベットやカタカナで俺なりのカッコいい名前を付ければいいって」
友孝は興奮していた。
「俺は自分で言うのもなんだけど単純だろ。一気にやる気が出てきたんだ。いきなり開業はできないから、とりあえず病院や治療院に就職して、『開業したらどんな治療院にしようか』なんて考えながら、金を貯めるのも楽しそうだなって思ったんだ」
「その話聞いたらなんか俺もやる気が出てきたな。いいよな、カッコいい治療院か…」
明弘が明るい声で言った。
「タカッチはすごいよ」
友孝がしみじみと言った。健児も同感だった。三人がほぼ同時に煙草をビンに入れた。
「俺は連休中に京都の立志大学の情報工学部を第一志望にすることに決めた。はっきり言ってかなり難しいけど。他にも東京や仙台の情報処理系を受けるけど、とりあえずは立志を目指す」
これまで聞いたことがない、完全に腹を括ったという感じの健児の口調に友孝も健児の変化を感じていた。
「京都か、なつかしいな。面白かったな、修学旅行。よかったよな、京都は。なんか日本人の心のふるさとって感じでさ。いいじゃん、お前が京都に行けば俺達も遊びに行けるってもんだ」
明弘が暢気に行った。
「おい、その俺達ってのは、お前と俺のことか、それとも加奈子か?」
友孝がひやかすと、
「みんなで行きゃあいいじゃん。二度目の京都への修学旅行だよ」
「なんか俺は邪魔者みたいで嫌だな…。まあいいか、京都に着けば健児もいるし」
「お前ら、立志の偏差値がどれだけ高いか知らないからそんな暢気な話が出来るんだよ」
健児が困った顔をして言うと、友孝と明弘が、
「そこがダメだったら、仕方がないから東京でも仙台でもいいさ。それになんかお前なら突破しそうな気がする」
「俺もそんな気がするよ」
と言って二人とも笑った。
「修学旅行先が仙台になっても俺のせいにすんなよ」
笑いながら健児が釘を刺すと、
「いや、お前のせいにする。京都がいい。だから頑張れ」
明弘が言った。
「お前らの頑張れは、タカッチの頑張れの百分の一の役にも立たないな」
「当たり前だ。敵(かな)うか」
友孝がそう言って席を立つと、
「さらに頑張ろうぜ」
明弘もそう言い残して部屋に戻った。
次の日、校門脇のソメイヨシノに触れるとすっかり葉桜になり、枝に残っている花びらよりも散って落ちている花びらのほうが多くなっていた。健児は頬に触れる花吹雪とふっくらした靴の裏の感触を楽しみ、マイルス・デイビス風の「枯葉」をハミングしながら登校した。
健児はいっそう授業に力が入っていたが、やはり立志大学の偏差値の高さが気に掛かっていた。
放課後、飯坂と面談をした。健児は難しいと言われる覚悟をして、立志大学に決めたことを話した。
「立志か。俺も高田先生が墨字にしてくれた資料を見たよ。立志はいいかもな」
意外な返事だった。
「一般入試を受けるのか?」
「はい。でも、それ以外に何かあるんですか?」
「AO入試があったぞ、確か」
確かに書いてあったが意味が分からなかった。
「AOって何ですか?」
「アドミッション・オフィスの略だけど、まあ自己推薦試験みたいなもんだ」
「自己推薦たって、俺がアピールできるものなんてありません」
「お前はバカか。これからでもいいから作るんだよ。無理矢理にでも。もちろん俺達も手伝う。それにお前には、一般の高校生になんか負けないアピールポイントがたくさんあるだろ」
健児には何も思い浮かばなかった。
「俺なんか到底太刀打ちできない、全盲でなければできない経験をたくさんして来てるだろ。それから全盲でなければ思い付かない世の中に対する考え方もあるはずだ。それをアピールするんだよ」
「全盲しかできない経験や考え方…」
「経験」のほうは、何となく分かるような気がしたが、「考え方」については皆目見当が付かなかった。それともう一つ健児には気に掛かったことがあった。朱実は一般入試を受けるはずだ。
「推薦で受けるというのは、全然考えてなかったんだけど。一般入試じゃなくていいんですかね…」
「AOを落ちたら受ければいい。併願は出来るはずだ。健児、いいか、これも『手段』だ。大事なのはお前が入学してから何を学ぶのかってことだろ。不正なことをするわけじゃない。スポーツで有名大学に入るのをずるいなんていう奴がいるが、そんなのは学歴社会に毒されたバカな見方だ。大学の使命は、どれだけ社会に貢献できる人材を巣立たせることが出来るかだ。勉強を頑張ったやつと、スポーツで汗を流したやつとで、どっちがどれだけ卒業後に立派な社会人になるか、そんなこと誰にも分からない。話が逸れたが、いいか、健児、大学に入ってから何を学ぶのか、それが一番大事だ。それを考えろ」
健児は広げたひざの上に両手を置き、しばらく下を向いていたが、ふと顔を上げると言った。
「立志のAOと一般入試の併願で行きます。よろしくお願いします」
寄宿舎に戻ると、健児は初めて自分から朱実にメールを送った。
「りっしのじょうほうこうがくぶにきめました。とりあえずAOにゅうしをめざします」
家からだろうか、朱実からもすぐに返事が来た。
「やった!AOか。いいと思う。それじゃ言い出しっぺの私が落っこちないように頑張るね。なんか、さらにやる気が出てきた。ありがとう」
「おれのほうこそ、えねるぎーをありがとう」
「いよいよスタートだね」
「じこべすとをめざすよ」
「私も」
「ごーるであおう」
今の自分にとって一番いい形だと、咄嗟に思いついた言葉だった。少しだけ間を置いて、返信メールが届いた。
「うん、そうだね。位置に着いて、よーい、バン!」
それ以来、朱実からのメールは来なくなり、健児からも送ることはなかった。
五 見えない桜
会場の広さと音響設備の良さは格段に違ったが、学長のあいさつは盲学校の校長よりスケールが大きくなっただけでやはり退屈なものだった。音の響きとざわめきでそのホールがどれだけの広さで、どれほどの人数がそこにいるのかが、だいたい健児には分かった。
初めて人前で着たスーツが自分では似合っているのか分からなかったが、買う時に妹の美紀が一緒に行って選んでくれたことだけが心強かった。
「俺みたいなのが、健児には似合う」
と飯坂が言ったので、短めにカットし、前髪をムースで立てたヘアスタイルにした。美紀も「似合う」と言ってくれた。
退屈な挨拶が続いた後に合唱部が初めて聴く校歌を歌った。
「立志、立志、立志ー」
大学の名前を繰り返すサビの部分だけは、すぐに覚えられそうだった。
終礼をし、会場にざわめきが戻った。
明弘と友孝は希望通り専攻科に進んだ。加奈子は契約社員だったが、盛岡市内の大きなデパートに就職した。
卒業式後のホームルームで飯坂は、黒板に十五センチ四方の大きさで縦に「自」「業」「自」「得」と丁寧に書き、教卓の両端に両手を置いたいつもの姿勢で言った。
「とうとう中継点まで来たな。最後にみんなに『自業自得』という言葉を贈りたい。『ざまあみろ』というような悪い意味合いで使われることが多い言葉だが、これは元々、仏教用語で、『自分の身の回りに起こる良い事も悪い事も全て、元々は自分の行いに原因がある』という意味だ。みんなにはこれから壁にぶつかった時に『自業自得』という物差しで物事を考えてみて欲しい。そうすれば大抵の事は自分に原因があることに気付くはずだ。視覚障害者だからといって、運が悪いだの周りの人が悪いだのとすぐに考えてしまう人間にはならないで欲しい。そして、世の中には『自業自得』という言葉がどうしても当てはまらない可哀相な人達がたくさんいる。そういう人達にこそ全力で優しくしてあげられる人間になって欲しい」
そして最後の最後にこう言った。
「悪い意味ばかりじゃない。『自業自得』。自分の努力は必ず自分に戻ってくる。いいか、お前達は生きている。生きているってことは可能性があるってことだ。お前達には時間がある。しかもたっぷりと。有効に大切に使ってくれ。以上!」
四人は涙と鼻水を拭いながら聞いた。
「タカッチ、クサイよ」
明弘が鼻水をすすりながら言った。
「お前にだけは言われたくない」
飯坂が笑いながら言った。全員が泣きながら笑った。
「ゴールデンウィークか夏休みには、三人で二度目の修学旅行に行くからな」
「なんならタカッチに引率してもらうか」
卒業式が終わって、玄関を出たところで、明弘と友孝が健児に握手を求めながら言った。
二人と固い握手を交わしていると、
「健児君」
健児のすぐ後ろに一足先に卒業式を終えた朱実が花束を抱えて立っていた。
「息苦しいー!早く出よ」
入学式を終えた大学のホールで、朱実は健児の左手を引っ張った。
外は出発してきた前日の盛岡の寒さが嘘のような暖かさだった。
健児はAO入試で、朱実は一般入試で立志大学に合格していた。朱実はセンター試験も受けたが、京都大学には合格しなかった。
AO入試の自己推薦文に健児は、「視覚障害者の可能性を広げるコミュニケーション関連ソフト開発の研究がしたい」と、「手段」としてではなく、本心から書いた。
「ねえ、これから龍安寺に行こう。健児君にもあの落ち着いた雰囲気は絶対に分かるから」
二人の両親が時折笑いながら話をしている横で、朱実が健児に言った。
「うん」
頷きながら健児は考えていた。
――たぶん卒業する頃には、こんな風に俺の横に朱実は居ないだろう…。
生暖かい風が紺とピンクのレジメンタルのネクタイを揺らした。
――俺はその頃には自分に何が出来るかを見つけているだろうか。そしてしっかりと一人で歩いているだろうか。
「写真、撮るぞ」
健児の父親の声だった。朱実の誘導で移動し、父親の声のするほうを向いた。
「全体的にもう少し右がいいかな」
その要求に応え、皆が一メートル程横に移動した。
「いくぞ!はい、チーズ!」
健児には、その写真のバックで満開の桜が見事に咲き誇っていることが分かっていた。空に向けて顔を上げ、鼻から深く息を吸って見えない桜を体全体で眺めた。
了
第23回さきがけ文学賞選奨受賞作(2006年)
2007年ソニー・デジタルエンタテインメントより電子書籍発行 iBooks、Kindle、コミックシーモア等から販売
現在の出版権、著作権は著者に帰属
あとがき
この作品は当時勤務していた盲学校を舞台にしたものです。主人公はある生徒をモデルに、教師は私の理想の教師像を描きました。その生徒は主人公と同様、ITの道に進み、全国から注目されるシステムエンジニアになりました。結婚式に招待されて会ったのが最後ですが、健康で幸せに暮らしていることを心から願っています。
当時私は入退院を繰り返していて、これは入院中のベッドの上で書いたものです。突然小説を書きたくなって、妻にパソコンを持って来てもらい、夢中で書いた処女作で、初めて賞をいただいたものでもあります。やはり闘病していた母が亡くなり、その喪失感から鬱屈とした日々を送っていた中、亡くなってから二ヶ月後に受賞の連絡が来たので、賞もですがこの作品自体が拙作ながら母からの贈り物だと今でも思っています。