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自分を好きになる方法

先週声優や俳優をされている津田健次郎さんのラジオを聞いていたら、16歳だったか17歳だったか、そのくらいのご年齢の視聴者さんが「他人と比較してしまって、自分は何者でもないと思ってしまう。自分を好きになる方法を教えて欲しい」というようなお便りを送っていた。

20代後半の私はそれを片手間に聴いていて、「青春だ、、、」と思ったのだが、自分が同じくらいの年齢のときは、「年齢の割に多い」白髪で悩んでいた母に、「そんなの誰も気にしないんじゃない?白髪は白髪でしゃんとしてたらかっこいいと思うけどなあ」と言うような子だった、ことを思い出した。大人になってから本人に教えてもらったが、母はそれで考え方が変わったらしい。「人と比べない」がわりと最初からあったらしいのである。

大人になった今、改めて「自分を好きになる方法」を考えた。理由は特にないけど、考えるのが好きだから!とでも言っておく。

人と比べない

もともと「人と比べる理由がなくない?」と思っているところがある。なぜなら、人と比べられるほど社会も人も単純ではないからだ。勉強や運動とか、まあ得意不得意あるし、それぞれに焦点を当てると確かに優劣は付けられるかもしれない。けどたとえば勉強で、国語は私より誰々の方が得意だと思っていたとして、テストは本当にその優劣を「正確に」つけられるようになっているのだろうか。テストの点だけでなく、生活環境や学習環境は?努力の才能は?宿題は認知特性に合っているだろうか?とか、地頭の良さは?とか、能力だけでなく、さまざまな要因が重なってテストの点数に現れてくる。そのテストの点数でさえ、問題によっては違う結果になったかもしれない。ただ人の適性を測ったりするために、便宜的に人の理解度を表せるようにした尺度に過ぎないのである。

加えて、優劣をつけること自体を肯定するわけではないが、もしテストが正確に優劣をつけられるとしても、私たちはテストで測れるものだけを持っているわけではない。高校受験や大学受験では、大抵の場合座学だけが試験として課されるが、運動や料理、音楽など、それ以外にも人が能力を発揮する手段は様々である。そして、自分が能力を発揮できるものに早いうちに触れることができる可能性が高いわけでもない。もう少し大人になって、就職活動をして不採用になっても、その業界や会社に適性がないと判断されただけかもしれない。就職後も同様である。それに、勉強や仕事が「よくできて」所属する社会で「評価されている」人が、実はいじめの加害者だったり、家庭をかえりみないタイプの人間かもしれない。

人は自分が感じているよりもっと多面的で、複雑だ。それをどう比べるんだ、と言う結論なのである。

何者でもないけど、それでOK

「自分は何者か」みたいなところでいうと、社会や他者への影響力を指標にしている人が多いと思うけど、私は「自分の使命を全うしよう」とも、その逆ともいえる「生きているだけで価値がある」とも違う考えを持っている。生きてる意味なんて大層なこと考えなくて良いと思う。そういうことを考えるとき、大抵地球、宇宙レベルで物事を考える。

地球カレンダーで見たら、人間の命なんてほんの瞬き程度。一瞬だし、宇宙レベルでみたら地球でさえ、(宇宙がどのくらい続くかわからないけれど)物理的にも時間的にもちっぽけかもしれない。月から見ただけでジオラマよりもっと小さい微生物みたいな私たちは、誰も、何者でもない。ジオラマを見たときにそれぞれの生活を眺めてみて、日常のかけらを垣間見たりするけど、そのとき「面白いね」ってなるみたいに自分を眺めればいいと思う。生命のあるところ自体が希少なら「なんだこの星、面白いな」くらいの気持ちで。そしたら、ごくごく小さい生き物がそれぞれの人生を四苦八苦して、自分たちの「知っていること」を世代を超えて広げようとする営みが、愛おしく思えるようになるかもしれない。その極小サイズの私たちは、自分の手で抱きしめられる程度のものを大事にすれば、それで十分かもしれない。

ただ、人間は社会的な動物で、お互いに関係しなくちゃ生きていけないから、それぞれの良さや自由を守っていくためのある程度の配慮は必要だろうし、みんなが豊かに生きていけるようにしていかなくちゃいけないけれど、それは自分1人だけでやることではない。誰もが「自分は関係ない」と思っていたら人類は衰退するだろうけれども。

終わりに

「自分を好きになる方法」とは違うかもしれないけれど、「人と比べない」「何者でなくてもOK」みたいな考えは、自分だけでなく他者の存在を認める上で重要だと思っている。共感できなくても、お互いに理解しあうことのできる関係を築いていけたら幸せだ。

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