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宗教や信仰についての雑記 #172

◯不法出生訴訟

先日、不法出生訴訟と不法生命訴訟の話を耳にしました。

不法出生訴訟とは、障害児の親が、医師の過失(診断ミス、適切な情報提供の怠りなど)によって、本来であれば中絶できたはずの障害児を出生してしまった場合に、その医師に対して損害賠償請求を行う訴訟です。
不法生命訴訟とは、その原告が親ではなく障害者本人である訴訟のことです。

これらの訴訟については、生命の尊厳を軽視しでいるとか、障害者差別を助長するとかいった批判がなされているそうです。

私は持病はありますが障害というほどではありません。また、私の家族も同様です。ですから安易に批判めいたことは言えませんが、これらの訴訟の話を聞いて感じたことがあります。
それは、それらの訴訟を起こした親の子供や、訴訟を起こした子の親はどんなふうに思うだろうか、ということです。
その気持ちを想像すると、何だかとてもやりきれないような気分になります。
なぜなら、これらの訴訟は、「不法出生訴訟(Wrongful Birth Suit)」や「不法生命訴訟(Wrongful Life Suit )」という名称が示すように、「この子は、自分は、生まれてこなければよかった」という考えから起こされる訴えだからです。

もし本当にそれに関して何らかの医療過誤があったならば、その責任は問われなければならないでしょう。
でも、そのことと「生まれなければよかった」ということとは別のような気がします。

しかし、私は自分が障害に苦しんだことも、障害を持つ家族の介護をしたこともありません。当事者の方々の苦労や苦悩を経験したことがない私のような者が、もし同じ立場に置かれたら、「生まれてこなければよかった」と一度も思わずに暮らすことができるのかと問われたら、「できる」と答えられる自信は全くありません。

思いは堂々巡りするばかりです。
理想的なのは、障害を持って生まれてきても、「生まれてこなければよかった」などと思うことのない社会を実現させることなのでしょう。
とは言ってもそれは「言うは易し行うは難し」で、少なくとも一朝一夕にできることではないでしょう。

結論は出てきません。容易に結論の出ない問題を、投げ出さずに考え続ける力が必要なようです。

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