宗教や信仰についての雑記 #116
◯星野富弘氏の言葉
先月の28日、詩人で画家でもある星野富弘氏が亡くなられました。そこでその著書の「愛、深き淵より。」(学研プラス)を読んでみました。
その本の目次の次のページに、題名のない一篇の詩が記されていました。
二番目に言いたいことしか
人には言えない
一番言いたいことが
言えないもどかしさに耐えられないから
絵を描くのかもしれない
うたをうたうのかもしれない
それが言えるような気がして
人が恋しいのかもしれない
個人的な感想としては、この詩の表現技法はさほど高くないように思えました。しかしこの詩には非常に惹きつけられます。
おそらくそれは、この詩の言葉ひとつひとつが、現実に存在した人生の苦悩を背負っているからだと思います。
そしてあと二つ、とても印象に残る文章がありました。
「人がどんな気持ちでながめようと、さくらはさくらの色を少しも変えやしないし、散りかけたものは、一秒だって待つわけではなかった。
悲しみの目でみようと、酒をのみながらみようと、たとえその枝で首をつる人がいたとしても、ぶらさがっている人の横で、さくらはあいかわらず、美しく咲き続けることだろう。」
「たしかに形あるものはなにひとつ持っていない。けれども数多くの、目に見えるものを支えている目にみえないもっとも大切なものを、長い苦しみと絶望の果てから与えられ、それが心の中で息づいているような気がする。」
非常に重みのある言葉だと思います。
言葉とは一体何でしょう。
現実世界を切り分けて、情報として伝えたり思考したりする道具であると同時に、情報以上のものをも担うものでもあるようです。
同じ言葉でもその背に担うものが大きければ大きいほど、言葉そのものの重さもより増すようです。
ときに人はそれを「言霊」と呼ぶのかもしれません。
この続きはまた次回にしたいと思います。