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「フォーティーナイナーズ」とは

一般的には

フォーティーナイナーズ(49ers)」というと、アメフトのチーム名として理解されるだろうなと思う。けれど、ぼくがここでアメフトのチームについて書くことはない(なぜならアメフトを知らないから)。

ぼくがそう自称するのは、昭和49年生まれだからだ。

「昭和49年生まれの人たち=フォーティーナイナーズ」。これは、ぼくオリジナルの発案ではない。
25歳で就職したしょっぱな、職場の新人研修あたりの話。同期の多くは22〜23歳で、誰だったかが飲みの席か研修旅行中だったか、言ったのだ。ぼくと同じ昭和49年生まれの何人かに向けて「あなたたちはフォーティーナイナーズだね!」と。
もう25年も前の、とるにたらないような出来事。
だが、ずっと記憶に残りつづけているということは、ぼくにとって流せない、何か感じるものが当時あったし、今でもあるのだろう。

「フォーティーナイナーズ」を掘ってみる

「フォーティナイナーズ」には、冒頭で触れたアメフトチームの名称以外にも意味があって、それは
「1848年のアメリカ合衆国カリフォルニアでの金発見にともない、翌1849年、金を求めてカリフォルニアに殺到した人々(Wikipediaより引用)」。

「殺到→人数多い」とやや強引に飛躍すれば、昭和49年生まれの数はとても多い。
団塊ジュニア世代というやつだ。そう言うと、もう就職氷河期世代というイメージがくっついてくるだろうし、「東洋経済」の記事なんかが「悲惨」「やばい」と煽ってくるだろう。
この文脈で「金を求めてカリフォルニアに殺到した人々」を読み替えて「少ないパイ=良い大学、あるいは良い企業からの内定を求めて就活説明会場に殺到した……嗚呼、悲惨な世代の哀歌」的なテーマでいく気はない。ぼくじゃなくても、もうさんざん扱われているし。

どちらかというと
「それでもどっこい生きてる、昭和49年−−−−同学年という意味では、昭和50年早生まれの人たちも入れたい−−−−世代のぼく個人、あるいは『ぼくら』」
にフォーカスしていけたらと思っている。
ぼくらをカギカッコで括ったのは、ぼくは荒っぽい世代論をそこまで強く信じていないというのがあるから。
このことには次の記事「ひとりとは」で詳しく書いてみたいけれど、ぼくが書きたいのは世代論の反対、個別の語りということになる。

世間的に有名な、フォーティーナイナーズたちはというと

ぼく自身は無名の存在なわけだが、参考まで、昭和49年世代の有名な人たちについて触れてみる。

松井秀喜……昭和49年世代で、高校生の頃から「ああ彼が同い年か」と意識している人は多いんじゃないかな、と思っている。

山本太郎……松井ほどではないにしても、同様に存在を意識している人もいるはず。もちろん「天才たけしの元気が出るテレビ」の「ダンス甲子園」でお茶の間を震撼させた際の衝撃込みでだ。
彼の政治的なスタンスについては、この記事の段階ではいったんノーコメントとさせていただく。いま一つ言えるのは、ぼくが2024年11月ごろにYoutubeにアップされているのに気づいたラップバトル動画は出色の出来だったということだ。

水野美紀、ケイト・モス……ぼくが若かりし頃、実家の壁に雑誌のページだかを切って貼っていた記憶あり。理由?そりゃ綺麗だからですってば。
当時、いやさっき調べるまでの20ン年間、彼女たちが同い年という認識はなかった。

中村一義……ぼく個人としては、「同い年なんだよな」といちばん意識してきたのはこのミュージシャンになる。彼、あるいは意識してきたぼくについては記事を改めて書けたらなと思う。

上で書いた他にも、芸能人やスポーツ選手などいるわけだが、列記してもあまり意味がないというか、見えてくるものはないかもと思う(興味がおありでしたら、「1974年生まれ 有名人」なんかで検索してみてください)。

書くにあたり、意識すること

ぼくがこのテーマで記事を書いていく上で、意識することとしては。
「乱暴な世代論にはならないように」
そして
「有名な人たちの反対、世間的には無名の人たちについて書く」だ。
まずは、他者よりも情報量が多いぼく自身について。
知り得るならば、今を生きる「同学年人」の他者について。
いろんなことを経ながら今日まで50年ほどを生きてきた、日本の(あるいは、日本を飛び出て海外に住む)同じ学年に属する人たち。

小中高の12年、僕らは基本的に「同学年の世界」を生きてきた。
大学あたりで、交友範囲が「同じ学年」に縛られなくなり(バイトやサークルや飲み会の存在は大きいだろう)、社会に出れば職場に同学年はおろか同世代だっていないなんてことも起こり、付き合う人たちというものに「同学年の縛り」などなくなる。
けれど、いわゆる学制の「同じ学年」意識というものは、現状の日本の教育制度がものすごいレベルで変革されない限り、個人の中でそれなりに大きく残りつづけるのではないだろうか。
少なくとも、ぼくの中には残っている。

日常、誰かと接するときには、コスモポリタニズムを持っていたいと願っている。
ぼくが持つ愛国心とは、排他的でヘイト的なものではなくて、生まれ育ったこの環境への愛着心だ。
同じ学年の人たちに届けば良いなと思いつつ書いていくからには、これも一種のぼくなりの愛国心=愛着心の発露とも言えるんだろうなと。

なんだか最後ヤケに仰々しくて良い人っぽくなってしまったけれど、今後書く内容としては「良い人アピール」にはならない予定です。
露悪的にしているつもりもないのに、「わ。ダメじゃん」とあきれられるような内容をも含むだろう。
noteの理念やポリシーに反しないように、うまいこと表現していかないとな……、という緊張が少しある。





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