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記憶が不確かでいい加減で、いともたやすく塗り替えられているなら……や、それであっても
留保としての一冊は
『記憶がウソをつく!』という、養老孟司氏と古舘伊知郎氏の共著がある。
ぼくがこれを読んだのは、その書評が雑誌に載っていたのを観てのことだから、
新刊本の発売年である2002年頃と思うのだけれど、
……はいもう怪しい。例えば、10年ぐらい誤差があったとしても、つまり読んだのが2012年だったとしても、ぼくにはわからない。
本の内容に関してはもっと怪しくて、本当にざっくりとしたこと……「記憶は書き換えられて変化していくものだよ、そこを絶対視するのはやめておいた方がいいよ」程度しか思い出せない。これは、書き換えというより忘却、消去か。
自分の年齢と記憶について書くならばと題材候補にしていた文章(発言)で、
「50代を過ぎると、記憶の重要度は決定的に大きくなる」
というのがあって(ぼくの中にはあって)、発言者は保坂和志氏、それはカンバセイション・ピース発表後のインタビュー記事のはずと思っていたけれど、少なくともネット上には再テクスト化はされておらず発見できなかった。
……あるいは、発言者が保坂氏ではないとか、そもそもそんなこと誰も言ってない(ぼくの勝手な空想というか捏造)可能性もぜんぜん否定できない。
妻との気まずい言い合い(ぼくが記憶自慢から降りた日)
下の子が小学校中学年の頃の話だからまだ10年以内のことだけれど、友達から年賀状をもらって自分はその友達に出していなく、ぐずぐずしていたら明日で始業式という日になってしまった。
ポストに投かんすると、新学期に間に合わない。あー年賀状くれなかったなーと友達に思われたくはない。その子のマンションのポストに直接投かんすれば間に合うのでそうしたいという。
自動車がガンガン通る、細めの道沿いに建つマンションだったよな、ということはぼくも知ってはいた。それで妻に
「その子のマンションって『プレッピーコート○○が丘(仮)』だよね」
すると妻は「違うよ、『ベルウッド○○の杜(仮)』だよ」
子に、一応友達からの年賀状の送り主欄を見せてもらうと、よろしくないことにマンション名が書いていない、どころか氏名しか書いていない。ぼくの子が書いた方も、直接投かん前提で名前だけだ。
ぼくはなぜか譲らず、妻も譲らないタイプの漢(生物学上の性別は女性だが)なものでエスカレートし、子に不安げに「一人で行ってくるからいいよ……」と言わせるよくない展開に(ほんと今更ごめんよ子よ)。
それでGoogleマップを見たら……妻の言っていたマンション名が正しく。
サーセン私が全面的に間違っておりました!となった。
その日以降、ぼくは自分の記憶だけでものを言うのが怖くなった。
まあ、そのことがあってよかったのだろう、たぶん自身にも家族にも……
そう思うようにしている。
今でも「我が記憶は完全無欠」の看板を下ろしていなかったら、ぼくにも家族にも生きづらくなってしまっていただろうから。
ああ、家族でやる神経衰弱(トランプ)も、それまでと違って子に負け始めていた時期とも重なる……
……重なる?ここもあいまいだ。「重なる」にすれば文章としてはこなれているけど、正しいかはわからない。捏造しちゃっているのかも。
記憶がいい加減でも、その層を掘って潜っていき、拾う行為はぼくには大事
保坂和志氏が言った(?)
「50代を過ぎると、記憶の重要度は決定的に大きくなる」
をそのまま信じられるように、実感が湧くように、50のぼくは整ってきた。
いまつながっている人たちとの関係も大事だけど、過去に出会い、様々な理由で会うことが難しくなってしまった、あるいはもう会えなくなってしまった人たちの側にぼくはいたのだということ。
一緒に仕事をし、飲んだりもしたこと。
バイトで知り合った仲間たちと真鶴へ何度か行ったこと、聖地巡礼なんて言葉当時はなかったけど「聖地」に見立てていたような。
勢いだけで、雑誌『H』で知り合った人中心に4人DJイベントやってみた!こと。
夜中に流星群を見ようとドアの外へ出て「寒過ぎる……!」と笑いあったこと。
愛を語り合ったり、修羅場と言えるような地獄の刻さえも、大切な記憶で。
いま、ぼくは眺めているんだ、記憶のリールを逆回しに
上記はオブ・モントリオールというカナダのバンドの「あるエリュアール主義者の一例」という曲の歌詞のうち
"Now, I am viewing my memory reel in reverse"
を訳したもの。
この記事のために一年ぶりぐらいで聴いて(観て)、Kevin Burnesの声、映像の「完璧な夏」感、映画「SUPER HAPPY FOEVER」の後半部を思わせる幸福感に、ちょっと涙腺にぶわっとくるものが。
歌の主人公が眺めている「彼の」リールは、正確な事実ではないものが多く混ざり込んでいるだろう。いくつかのショットは差し代わっていたり、観たくない箇所は切り貼り編集が施されていたり、捨て去られてもいるかもしれない。
それでも、記憶のリールは個別的で、どれほど科学が進んだとしても共有はできなくて、その人だけにしか観られない。
リール映写機は心にがっしり固定され、あるいは、映写機自体が心本体なのかもで、まあとにかく取り外すことはできないからだ。
生成AI君が近未来で、人の全生涯の記憶すらそれっぽく作り上げたり、そんなことも可能になるだろう。
でもそんな進歩だかとはまったく関係なく、その技術に貶められることはなく、、あなたの記憶のすべて、愛しいものも、忌まわしいものも、記憶のすべてはあなただけのものだ。
…‥と書いているとどうしても映画「エターナル・サンシャイン」を思い出してしまうけれど、とりあえず今は触れないでおこう。
(なお、「あるエリュアール主義者の一例」の和訳や情報について、HatenaBlog のめんどく才子様の記事「こんにゃくおんがく(2022年2月4日)」を参考にさせていただきました。)
記事を書いてYoutubeを進むに任せていたら、米津玄師の「さよーならまたいつか!」の「『虎に翼』OPタイトルバック・フル」に替わって、思わずその素晴らしい歌と映像に魅入られていたら、再び涙腺が……(困ったおじさんだなー)
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