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吠えている彼と、私を守った眼差しと

学生の頃のこと。
私は小さな古いアパートで独り暮らしをしていて、無残だった初恋の終わりや、大切な人との別れを経験して、終わらない苦しみに苛まれながらも、それなりに元気に学生生活を送っていました。思い返すと、私は私でありながら、幾人もの私が同時進行で活動していたような気がするくらい、思い出の場面、場面で突き詰めて、真剣で馬鹿げていて愉快で鈍臭いのでした。どれも本当の私でした。

ある日の夜、東京の恋しい人から電話がありました。アパートのお向かいの小学校教諭への電話で、先生が取り次いで下さいました。

先生の部屋に行くと、もう一人の先生と、同僚と思しき年配の男の先生がいて、三人で飲んでいるところのようでした。電話の内容は、すべて筒抜けの状況なのでした。

それでも、東京から電話を貰うのは滅多にないことなので、受け取るのに必死の思いがありました。

電話の向こうで、彼は、とても機嫌が悪い様子でした。職場でなにかあったのか、職場の電話を使って長距離電話をすることに対して、ざまぁみろ!文句あっか!という怒りを含んだ言葉を発していました。何に対して怒っているのかはわかりませんでした。会社のことなのか、仕事のことなのか、私のことなのか、あるいは全部なのか。
お返事には気を付けないとと心に決めて、彼の言うことを聞いていました。

あんたさ、俺のこと好きだとか
愛してるとか言うけどさ
愛ってなんなのよ!

いきなりぶつけられた怒りを含んだ言葉にうろたえながら、目を瞑って、周囲のことをすべて忘れて、応えていました。

それは、海のような 広くて深くて遠く揺れているものかな

それで、俺はなんなのよ!あんたは何なのよ!

考えたこともなかったけど、とっさに

あなたは船のようで、海を旅する。時々戻ってくる。また旅立つ
私は港のようで、船を見送り、帰ってくるのを待つ

そんな風に応じました。精一杯でした。
彼の吠えるような言葉に打ちのめされていました。
他に何を話したか、よく覚ええていないのだけど

その時、彼は私のことを「あんたはね、シガラミなんだよ」と
吐き捨てるように言いました。哀しかった。

気が付くと、酒盛りしている先生方が、
会話をやめて、私を見ていました。
優しく、どこか眩しそうな表情でした。

恥ずかしくて恥ずかしくてたまりませんでした。
丸裸の姿を晒してしまった。
でも、彼に、きちんと応えたかった。

電話のあと、ご年配の先生が
ここで少し話をしていかないか?と誘って下さいました。
お向かいの先生二人もうんうんと頷いていました。
ちょうどその時は試験中で、
私は赤点を取らないために一夜漬けに必死で、
お断りするしかありませんでした。


そのときの彼の心情ははかりかねました。

先生方の慈愛の表情から、先生方は私の丸裸の姿を眩しく受け止めて下さったと思いました。それは恥ずかしさよりも有難く、心に沁みました。

電話の件の前後に、彼との間に、何があったのか覚えていません。部屋に戻り、広辞苑を開いて「しがらみ」という言葉を引いて、考え込んでしまいました。

後からいろいろ考えて、彼はそのとき吠えてはいたけど、私を拒絶しようと電話してきたわけではなさそうだと、都合よく考えました。かといって、ただ機嫌が悪かったのだろうと思うには、あまりにも強烈な口調でした。どうしたら良いのか考えても、どうしようもないのでした。

彼と私を隔てる圧倒的な距離が、闇のようでした。
この距離が絶望的でもあり、救いでもありました。

哀しかったけれど、でも、私はできるだけのことをしました。
あの場に居合わせた先生方の眼差しが
ずっと私を支えてくれたように思います。







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