入院はひたすらお腹が空いて、煙草がうまかった2
30歳くらいの頃、厄介な慢性中耳炎のため手術を受けました。左はすでに手術を終え、半年後に右の手術をすることになりました。予約していたのですが、その時期を間違えたと悟ったのは、手術台に乗ってからでした。
時は四月半ば。ここはオペ室。あたしはすでにまな板の上。
安定剤のおかげで少々ぼーっとしていたのですが、ちょうどその日から新人看護師たちが病院の各部所に配置になったのでした。オペ室のナース。選り抜きとお察します。しかし、新人は新人。あたしの寝かされている手術台のまわりをぐるぐる走り回るのです。やめてちょーだい。でも言えない。
先輩ナースから「血圧計を付けろ」と指令があれば、血圧計を探し求めてぐるぐる走り回る。困り果てていると先輩ナースが、手術台の下を見ろと指示。私の腕に血圧計を付けた後に、オペの邪魔になるから足に付けろと指示される.…先輩ナースたちが「この手術は二時間ぐらいだから」とスケジュールについて話し出す。これはさすがに看過できず「ちょっと厄介で4時間近くかかるかもと言われてます」と申し出ました。ベテランナースたちまずい!と慌てだす。「私のお昼どうなるのよぉ」知ったことか!導尿も必要になるわね...…また機材を探してぐるぐる回りだす新人、いい加減にしろと叫びそうになったところで麻酔科の部長が登場。
お、この患者さん覚えてるぞ!
こないだ.…手術したばかりだよね♪
はいー半年前でした
その節はどうもお世話になりました
今度は右の耳です
よろしくお願いします
いや~、ところで、どうでした?麻酔。
そんなねぇ、一瞬で落ちてしまう強烈な麻酔、気づいたら手術が終わってる麻酔…どうですかと聞かれても、いや、聞いてくれるんですね!
あの~、申し訳ないんですけど
前回、舌を噛んじゃって
術後舌が腫れてえらい目にあいました
お~~、そりゃぁ大変だったね
では今回は完璧にやらせて頂きますからね
お任せください
あくまでもにこやかな部長、点滴に麻酔薬を注入するのを
新人ナースに命じ...…やーーめーーてーーーーーと
叫ぶ前に、落ちてました。
まるで漫画のようではないか。「病院へ行こう」という楽しい映画があったけど、現実の入院はもっと面白いネタに満ちてました。入院仲間も同意見でした。
目覚めると、手術は終了していました。口の中は乾いているだけで舌の腫れもなく、恐る恐る口を開けても問題はなく、顔に強烈な痛みもありませんでした。密かに言いますと拍子抜けでした。いや、酷いことを望んでいたわけではないんですけどね。
病棟は、新人ナースたちがたくさんいて、晴れがましさと緊張とをたたえて初々しいのでした。誰もベッドの周りをいちいち三周したりしませんでした。唯一、走ってくるのは、あたしの亭主が帰った後でした。
ちょちょちょっと!あんな素敵なおとーちゃん、
どうやって捕まえたの?
あ、そういえば、会社でもバイトの女子大生に人気だったな、亭主。
ギラギラ見つめる若いナースたち。
あーあー、そう、その時は痩せて~
乙女たち、うんうんと頷いてる
それから..…ん~、なんだろ?
わかんない
なんか無理やりこういうことになったんだよぉ
ちょっとがっかりした様子で去っていくナースたちよ。あたしなんかよりあんたらのほうが魅力的だってば。大丈夫、出会いのチャンスはきっとある!
毎日勝負パンツを履いて、その日に備えるんだ!
空いていた隣のベッドに若い女性がやってきました。トレンチコートが素敵で華やかな方で、病室が一気に明るくなった気がしました。
その方、桂英子さんというのだけど、ベッドの周辺を入念に濡れティッシュで拭き上げ、その次に、持参したお花を生け、花瓶に花束に付いていたリボンを丁寧に結び、リボンの垂れたところを指に巻いてカール。最後に枕元の照明でお花のライトアップをしました。衝撃でした。
桂英子さんはすべてが整うと、足を組み、スケジュール手帳を開いて、細かな字で入念な書き込みを始めました。動作までもが美しい。眼福である。
はじめは緊張していたようだったけど、すぐに仲良くなりました。彼女は捨てられそうになっている花束のリボン等を目ざとく発見し入手。ベッドの周りの仕切りカーテンまでをもリボンで美しく結ぶのでした。
桂英子さんは鼻の手術のための入院でした。あたしの耳鼻科歴が半端なく長いと知り、鼻の手術について「やっぱり腫れるのかしら」と聞いてきました。うん、鼻の人は、腫れるし、術後、鼻にぎっちりガーゼを詰め込まれて大変だとか。今は溶けるタイプの詰め物があるとかなんとか噂は聞いたことがあるけど、ほんとのことは知らないのごめんね。桂英子さん、まじめな顔で聞き、ちょっと何やらノートに書きこんで、決意したようにつぶやきました。
やはり、面会拒絶だわ!
そんな顔を知り合いに見られたくないわ!
うんうん
頷いてるメンバーが増えてる。お向かいの部屋の雅美ちゃんだ。若い子だけど、大人っぽいとこと幼っぽいとこが絶妙混じりあったかわいい子で、めまいで入院してきてる。煙草仲間でもある。雅美ちゃんはライトアップした桂英子さんの床頭台に見惚れている。
なんか、女らしいってこういうことですかねぇと呟く雅美ちゃん。
左耳の手術で入院したときは、若い女の子とあまりお知り合いにならず、喫煙所ばかりに通い詰めていたけど、今回は別の風が吹く予感。やはり退屈だけはしなくて良さそう。ただ、術後のトラブルはやはりあり、今回は「めまい」でした。
頭を急に動かしたり、治療のあとなどに世界がぐ~らりぐ~らり揺れて、うかつにバッタリ倒れたりするのです。夕方、お部屋のカーテンを閉めたりなどすると、ドーンと床に伸びてる。あたしより周りのほうがビックリするような展開。あたしはカーテンに触ってはいけませんと厳命される。
治療のあと、廊下の手すりにつかまって立ち話していても、回ったと思う前に転がってる。治療室の出入り口を出るときも、目測を誤って体半分が柱にぶち当たってドカーンと凄い音を立てて、気が付くと床に伸びてる。何度もやらかしたもので、治療のあとはナース二人にがっつり両腕を掴まれてベッドまで運ばれる始末。幸いにして頭を打ったりしなかったけど、危険極まりないんだわ。まぁ、これも次第に収まってきたり、あたしも転び慣れて、床に伸びるような転び方はしなくなっていきました。
そのうち同じ部屋に、会社でめまいでぶっ倒れて運ばれてきた梨花ちゃんが入ってきました。梨花ちゃんの会社に派遣されている医師がこの病院の先生なんだそうです。梨花ちゃんはベッドの周囲を柵で囲まれ、歩くことは許されてませんでした。ヘッドホンで音楽を聴いていたら様子を見に来た先生にがっつり叱られていました。梨花ちゃん、浜田さ~~んと言って半泣きでした。浜田省吾のファンなんだって。あたしと桂英子さんと雅美ちゃんは梨花ちゃんのベッドに集まって、よくお喋りしました。
倒れたときの状況を話す梨花ちゃん、ド迫力でした。
私、退院してももう職場に戻れないよ~
ど~して?
だって.…倒れたとき、出勤したばかりだったんだけど、うう、気持ち悪いって思った瞬間にものすごい勢いで吐き始めちゃって…のたうちまわって.…
うわ~、大変だったねぇ
それが…朝ごはんにカレーうどん食べたんだけど、鼻からうどんが....うどんがずるずる出ていて、職場のみんなに目撃されたのぉぉぉ
そ、それはお気の毒でしたと真面目に言うのは雅美ちゃんで、あたしとエレガント桂英子さんは、息もできないほど笑いこけてしまって、ごめん。これを笑わずして何を笑えばいいんだーーー。
そのときはもう人生終わったと思ったけど、やっぱ、オカシイ!
と梨花ちゃんも悶絶するのでした。
いやはや
小児科の子たちが集まってる部屋に、5年生くらいの目つきが悪い女の子がいて、いつもふてくされた感じで、なんだか気になるねって噂する私たち。
そういう子の妙な場面に遭遇するのが雅美ちゃん。
あの子、トイレでさぁ、なんか友だちとふたりで個室入りして、ちっちゃい子を見張りに立たせて煙草吸ってて。見張りなんか立てたって匂いでわかるじゃないですか。知らん顔してたんだけど、あんな狭いとこに二人だから、うっかりお尻かなんかでナースコール押しちゃってわーきゃー騒いで、看護師ぶっ飛んできて騒ぎになってましたよ。
うへー
あの子、友だちが来るとお化粧なんかしてるよね
そうそう、可愛いお化粧ならいいんだけど
それがまた目の周り真っ黒な不細工なメイクで
すれ違う時に笑わないように必死なんですよぉ
どうにかなんないんですかねぇ
コッチみんな!って凄まれましたよ と、雅美ちゃん
なんで雅美ちゃん、そんなこと言われるの?
ん~背も小さいから、同類にみられてるんですかねぇ
小学生と、同類?
いい迷惑ですよぉ
小学生がお化粧?ありえない.…とは言わないけど
何に歯向かってるんだろうねぇ.…と、あたし
なんかお気の毒ね、とエレガント桂英子さん
え~、私も見たい~というのが梨花ちゃん
喫煙室に通い詰めていたよりも、実に楽しいのでした。あたしの手術室のナースぐるぐる事件もかなり笑えました。術後のエレガント桂英子さんは点滴で苦しみ、点滴のバッグを指差し、あれを口から飲むので針、抜いてくださいって叫んで武勇伝をこしらえました。雅美ちゃんはめまいの原因は交際中の彼との問題にあると断定して、めまいじゃない、地球がまわってるんですって言って退院していきました。仕事が車の陸送だったので心配で姉御たちは気を揉みました。鼻からうどんが出ちゃった梨花ちゃんは、めまいの原因は風邪のウィルスが耳で暴れたのだろうと言われ、檻から出て社会復帰していきました。最後まで残ったあたしはまた喫煙室で癒されていました。
たくさんの人の中にいると、あたしはどんどん物が食べられなくなって、また痩せていくのでした。拒食傾向。前回は術後のトラブルが重なって隠れてたけど、実はそういうことなんだわね。
お腹は空いてるんだけど、食べられない。一日中、水かダイエットコーラをチビチビ口に含んで、過ごしていました。
今回は術後の経過も良くて5週間で退院しました。女の子たちのおかげで不良患者からの脱却を果たしました。10キロ痩せていました。
歩いていてもヒョロヒョロで床から3センチくらい浮いてるみたいでした。
その後、通院しながら家でのんびり過ごし、激しいリバウンドに見舞われました。めでたしめでたし。