パッチワークのパターンとマイコン、パソコン黎明期
学生の頃のこと。
17歳の時、それまでお世話になった下宿を出て、学校の近くのアパートで一人暮らしを始めました。
ある時、ゴミ置き場で壊れたテレビを拾いました。誰かが自動車愛好会に持っていけば直してくれるかもというので、テレビを持っていきました。テレビを見て欲しいというと、名前も知らない上級生が黙って頷きました。後ろのフタを開けてホコリを払う。先輩は湿っているなぁとか云いながらドライヤーを当てたらちゃんと映るようになりました。映りの悪いときはコレを窓から吊してみなといって、フィーダー線を結んだ針金のハンガーをくれました。
雨で窓が開けられない日は、ハンガーを持って踊り自分がアンテナになったりして。白黒テレビだったけれど、使っているうちにどんどん調子が良くなって、ハンガーを吊したり踊ったりしなくても、結構映ってくれるようになりました。テレビのある暮らし!チャンネル権は私だけのもの!という幸せを味わいました♪
映画を観た後、ほんの数分の電器メーカー提供の小さな番組でアメリカのとある女子大生の暮らしぶりを紹介していました。
スポーティな自転車を乗り回すその人はカリフォルニア大学の女子学生で、古いキルトのパターンを研究をしていました。コンピューターの画面に映し出された幾何学模様に目が釘付けになりました。当時、私が学校で勉強したコンピューターの言語はFortranといって、電算室に出かけていって山ほどパンチカードを打ち込んで、その束を電算室の職員に処理してもらうという途轍もないものでした。電算室の奥では、昔の007に出てくるようなでっかいリールがグルグル回っている巨大な箱が並んでいて、電算機が唸っていました。夏でも上着を着ないと寒い室温設定でした。
その頃、集積回路が10万円くらいで買えるようになって「マイコンの時代が来た!」と騒がれていました。教授のポケットマネーで購入したマイコンが研究室にやってくるまで、何年かかりました。私の在学中はそういったことはありませんでした。
ふたつ下の弟が高校生の時、物理部の奇特な顧問がマイコンを生徒に使わせてくれていました。父は会社で、弟は学校で、それぞれ夢中でマイコンをいじっていました。その時の言語が綴りはわからないのだけれど「コボル」とかいうもので、機械語だとかいうことでした。弟は「機械語を作りたいんだ」などと夢を語ったものでした。マイコンがいつしかパソコンと呼ばれるようになりました。
私は職場で日本語BASICなどを使うようになりましたが、大量にデータを処理するような仕事ではなかったので、ちっとも面白くありませんでした。
面白そうといえば、あのテレビで見たキルトのパターンを収集していたコンピューターの画面です。
父と弟に、コンピューターで線画を自由に描いて彩色できないか、線画を少しずつ変化させてデザインを楽しむことは出来ないかしつこく聞きましたが、何を夢のような話をしているんだと一蹴されるばかりでした。テレビで見たキルトパターン収集の話をすると、二人は興奮気味に、そこで使われていたコンピューターがどれほど高性能であるかを力説し、そんなコンピューターがその辺にあるはずはないではないか、お前は定規でも振り回していろ!とまで言われてしまいました。
あの番組に出ていた若い女性は、古いキルトのデザインを調べて行くことをライフワークにしたい、と話していました。
その時、私自身は、キルトの作り方をやっと探し当てたばかりで、布も持っていませんでした。パソコンも、驚くほどの勢いで進化していましたが、私自身が扱うには現実的ではありませんでした。海の向こうでは、キルトは女性の楽しみや手仕事といった意味合いだけではなく、研究の対象にもなりうるのだという強烈な印象だけが胸に深く刺さりました。
あれから何十年が過ぎ、今や21世紀。私はろくな知識もないのに、仕事のためではなく、楽しみのためにパソコンを所有し、プログラムだの言語だのといった知識なしにキルトのデザインを楽しむことができるようになりました。あの時思い描いたようなキルトのデザインを自在に楽しめるソフトがあるのです。
ゴミ置き場で拾ったテレビから私が見つけたもの.....…
いまだに、定規を振り回し、チビチビと針を動かしながらあれこれ思い出し笑いをしてしまいます。