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【ショートショート】「赤ん坊を貧血にする政策」

私はその事実に気づいている。

森の奥深くにある寂れた屋敷では、けたたましい赤ん坊の泣き声が響き渡っている。

屋敷の中には赤ん坊の元に駆けつける乳母はいない。代わりに羽音を立てながら赤ん坊の部屋に入り、天井にとまって赤ん坊を見下ろすコウモリたちがいる。

コウモリたちは白衣を着ている。聴診器を首から下げ、額には反射板を取りつけている。

コウモリたちは深紅の光沢を持つ黒い目で赤ん坊の容体を観察する。

赤ん坊はベビーベッドで寝ており、タキシードを着させれている。タキシードは大人用のサイズであるため、「着ている」というよりは、タキシードの首元から全身を突っ込んで顔だけ出している格好だ。タキシードの胸元には赤ん坊の体の輪郭に沿った膨らみがあり、赤ん坊が泣きながら両手足をばたつかせる度に波が立っている。

赤ん坊は大声で泣く度に、息が絶え絶えになり、ある程度呼吸が落ち着くと再び泣き始めている。その顔には肉がついておらず、所々に皺が寄っている。新生児のよう、と例えられそうだが、肌の血色は悪く、青白さに薄い緑と黄色が混じった色合いをしている。さらに肌は乾燥し垢が浮いて、硬質な照りを持っている。

少しして一匹のコウモリが体を翻しながらベビーベッドの柵に飛び移り、赤ん坊に向かって鋭い爪の生えた毛むくじゃらの手を伸ばす。

そのコウモリが赤ん坊の口から外れたおしゃぶりを咥えさせる。しかし赤ん坊は少しの間吸っていたものの、すぐに吐き出して再び発作的に泣き始める。

コウモリは再びおしゃぶりを拾いながら、チッと舌打ちを鳴らす。一瞬だけ口から覗く、隙間の開いた尖った歯たち。

赤ん坊はもう一度おしゃぶりを咥えさせようとしても、今度は両手足を振りながらますます大きな泣き声を上げる。

私は金属音のような赤ん坊の泣き声に胸を痛める。赤ん坊は「本物の食べ物をくれ」と訴えているのだ。

コウモリが天井の仲間たちに深紅の光沢を向けると、数匹のコウモリたちがベビーベッドの柵に乗る。コウモリは再び赤ん坊の乾燥で薄皮の捲れている唇を擦りながら、泣き声を上げる口におしゃぶりで蓋をする。今度は外れないようにおしゃぶりを持ち続け、赤ん坊が首を横に振って抵抗するのを、他の何匹かが抑えつける。

やがて赤ん坊は泣き疲れて寝息を立て始める。おしゃぶりを持っていたコウモリが慎重に手を離す。

コウモリたちは一息をつき、赤ん坊をしばらく眺めると、アイコンタクトを取り合う。全員が物音を立てないようにそっとベビーベッドの中に入り、赤ん坊をゆっくりとタキシードから引き摺り出す。赤ん坊はオムツだけを履いている状態になる。全身の骨と腱が浮き上がり、それぞれの骨と腱の間で皮が緩やかに張っている。一方で異様に膨れている腹。

コウモリたちは赤ん坊の両手足を押さえつけ、耳まで裂けた口を開けて、火のように赤い口中を覗かせながら一斉に食らいつく。

赤ん坊は目を見開く。あまりの痛みで呼吸が止まり泣き声も上げられない。

歯が血管を破るとコウモリたちは血を吸い始める。喉仏が律動し、腹が膨れる。皺が伸びボタンがはち切れそうになる白衣。

赤ん坊が失禁し、気絶する。全身の肌は緑色が濃くなり脂汗で照っている。

ある程度血を吸い取ったコウモリたちが歯を引き抜く。コウモリたちの張り詰めた白衣には、血のシミが無数についている。その姿は医者というよりも採掘場の作業員に近い。

コウモリたちはベビーベッドから飛び立って各々の部屋に戻る。途中、一匹のコウモリが引き返して、赤ん坊の頭上を飛びながらその全身に血の霧を吐きかける。

赤ん坊の頬に落ちた血が浮いた頬骨に沿って流れ、耳の縁にぶら下がる小さな水滴になる。そこにいたノミたちは急いでストローの形をした口で血を啜り、腹に溜め込む。

ノミたちは基本的に身動きを取らない。各々の場所で皮膚に口を突き刺し、血を吸っている。血の量が少ない上に、時にはコウモリに赤ん坊を介して血を吸い取られるため、活動のために使わずに溜め込む。そのせいでノミたちは本来の仕事である垢の掃除をしない。ノミたちは弱っていく赤ん坊に焦点を合わさず、ただ自分のわずかに膨らんだ腹に視線を落としている。

日が暮れると、数匹のコウモリが赤ん坊の部屋に来る。ベビーベッドの中に手を入れ、手際よくタキシードの手足部分で赤ん坊を包み込み、持ち上げる。部屋を出て、食べ物が沢山入っている冷蔵庫や、缶詰が大量に備蓄されている棚などのある食堂を素通りし、玄関のドアを開ける。

表にはカーシェアリングのホンダ車が停車している。一匹のコウモリが赤ん坊と一緒に乗車し、黒子の運転手に目的地を告げてホンダ車が走り出す。道中、車道のアスファルトが割れて隙間から雑草が繁茂している部分を通る度に、ホンダ車がガタガタと揺れる。

やがて景色が開かれ、ホンダ車は広場にある会議場に到着する。コウモリは黒子の運転手の掌に数滴の血を垂らした後、赤ん坊を連れて降り、会議場に入る。

会議場には何十人ものタキシードを着た参加者たちがいる。大抵の参加者がコウモリを連れており、コウモリとの関係はさまざまだ。コウモリを鳥かごに入れて持ち歩いている幼児の生徒もいれば、コウモリと手を繋いでいる壮年もいる。中にはコウモリを伴っていない青年もいる。当の赤ん坊を抱えるコウモリはコウモリと手を繋いでいる壮年の横に座る。

会議が始まる。議長は瞳孔から光を放つ巨大な目だ。巨大な目は、人類社会の繁栄と自然環境の保全の両立や、自分の仲間を守ろうとする道徳心と戦争の関係などのテーマが生徒たちに投げかける。

コウモリと並んで座っている壮年を中心に、皆が積極的に発言をする中、赤ん坊を抱えるコウモリは気配を殺してじっとしている。発言を求められると赤ん坊の口を爪で開けたり閉めたりしながら腹話術で、議論を避けるための曖昧な台詞を繰り返す。

参加者たちからは侮蔑的な視線を向けられるが、赤ん坊は眠り続けている。

しばらく経って休憩時間になると、巨大な目は閉じられて会議場が暗くなる。その途端、参加者たちは微笑みで隠していた牙を互いに向け、近くにいた誰かに襲いかかり、床に押さえつけて首元に噛みついて血を啜る。参加者たちがヴァンパイアの本性を剥き出したのだ。

コウモリを連れているヴァンパイアは一緒に戦い、自分の体内に取り込んで体表のノミたちに分け与えようとしている。一方の赤ん坊は他の参加者同様にヴァンパイアでありながら、なすがまま血を吸われている。

赤ん坊を抱えていたコウモリは、腹に溜まった血を他のヴァンパイアとコウモリたちに差し出して自分が襲われまいとし、時には赤ん坊を盾にして代わりに血を吸わせている。 

巨大な目が光り、会議場は再び明るくなる。参加者たちは何事もなかったかのように席に座り、人類の繁栄と世界平和に向けて話し合いを重ねる。赤ん坊の肌は青白くなりそこら中に皺が寄っている。わずかに開いている瞼から除く瞳は何にも焦点が合っていない。

そして満身創痍で家に戻り、またコウモリたちに血を吸われるのだ。


私はその事実を知っている。しかし何ができるというのだろうか?今私にできるのは、妄想による現実逃避だけだ。

私はいつものように、理想的な状況を思い浮かべる――。

手入れの行き届いた屋敷の中を食べ物の臭いが充満している。臭いは家の中を掃除したり、水道管をチェックしたりしているコウモリたちにも届いている。

食堂のテーブルに座っているのは丸々とした少年だ。少年はいつものように戸棚からトマト缶の缶詰を取り出して食べている。

少年が口の周りをソースで汚しながら咀嚼・嚥下する度に、体に栄養が行き渡り、体表のノミたちに血が行き渡っている。ノミたちの精力的な活動によって余分な皮脂は掃除されているため、少年の肌は艶々としている。

コウモリたちは血をたっぷりと蓄えている少年に牙を向けることはない。そんなことをすれば少年が痩せて成長が阻害されるだけでなく、会議場で餌食にされてしまうし、体表のノミたちに血が行き渡らなくなるからだ。

そもそも、自分たちの腹を満足させられるためには、大量の血は必要ではないし、体が大きいのは少年を押さえつけるためではなく、育てるためなのだから。

コウモリたちは少年の成長を楽しみに待ち、活力の漲る体で、次は冷蔵庫の食材を使って料理を始めようと考えている少年を、微笑ましく眺めている。

——もしコウモリたちに理想的な状況を共有できたなら、と私は思う。しかし私に何ができるのだろう。私には何の力もない。

私にできるのはせいぜい、赤ん坊の乾いた体表にストロー型の口を差し込み、自分の腹の膨らみを気にし続けることだけだ。


読んでいただきありがとうございました。
ノミたちの正常な判断によって選ばれたコウモリたちが、赤ん坊を青年に育てますように。

最後に

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