思いのままにただ綴るドラマ・アンメット愛21~当然のことです
2024年春のカンテレ(関西テレビ)制作のドラマ、「アンメット ある脳外科医の日記」第1話の感想を綴りたくて、noteを始めました。
延々と綴って、21回目。
「鏡映描写法」を使って、「川内先生は手術ができます」を物理的に証明した三瓶先生。
でも、ミヤビちゃん自身は、「手術はできません」と打ち明ける……。
二人っきりの屋上での会話……までの感想を書きました。
屋上、続きです。
思いの丈を…
「鏡映描写法」は、院長を説得するためにやったことだけど、同時に、ミヤビちゃん自身の気持ちを納得させる目的も大きかったんだと思います。なのに…。
「嬉しいことも悲しいことも全部忘れちゃうんですよ。どんなにレナさんのためになりたい、って思っても、次の日にはそう思ったことすら忘れて。寄り添うこともできない。そんな風に葛藤したことも覚えてない」
自分の言葉に自分で頷きながら。自虐的な笑み。
三瓶先生がじっと聞いているからか、ミヤビちゃんは思いの丈をまさに、吐き出しています。
いつも笑顔で病院に現れるミヤビちゃん。きっと、、誰にも言えない、言って来なかった思いです。
続けて言います。
ずっと三瓶先生はほとんど表情を変えなかったんだけれど、ここで何か言いたそうな表情に。……この表情がいいんだなあ。リピートしちゃうぅ!
初見の時には、「どう言えばいいか、考えてるのかなあ~」ぐらいの感想。
それまでじっと、ミヤビちゃんの吐露を受け止めていた三瓶先生。
「知ってますよ、でも受け止めます、どぞ」みたいな?
だけど、さすがに三瓶先生には、受け止めることのできない言葉がミヤビちゃんから出て……
「そんな人間が 患者を 診ちゃいけない」
これは黙って受け止められない、って思ったんじゃないでしょうか。
「そんな人間」。自分以外の障害を持つ人にも向けられる言葉。
「そんな人間」を支える側の医者でもあるミヤビちゃん自身が、こんな気持ちで、これから脳の障害を抱える患者の人生を心から支えることはできない……。
「気持ちは、、ありがたいと思ってます」と謝辞。
言えた。言い切った。お気持ちに沿えなくてごめんなさい、でもわかってもらえましたよね、という、安堵の表情のミヤビちゃん。
ゆっくりと、丁寧に伝える三瓶先生。たまらん。
素人で、手術のことは全然わからないんだけれど。
「できないことをやれとは言ってません」というのは、少なくともレナさんの手術はできますよ、ぼくはそれを知っていますよ、という意味ですよね。
ミヤビちゃんにはそのための、知識も、技術もあると。
それって。
あの、夜半の練習につきあって、感じたことですか?
「ベリーグッドです」って、言いましたもんね。
これなら文句なくやれる、って。思ったんですか?
この後も、三瓶先生がミヤビちゃんの手術のための技術に関して褒める言葉を掛けるのは「ベリーグッドです」だけなんですけど。
実際のところ、どう思っていたのかなあ。
「ぼくより凄いな」って思ったりしたのかなあ?
グッドです、じゃなくてベリーつくんですもん、三瓶先生的に最大の賛辞、という気はします。
周りがフォローすればいい。
でも、、ミヤビちゃんは自己評価が低い……。
「わたしのこと、わかっていない三瓶先生」「だから手術やれるとか言ってくるんだ」と思っているだろうミヤビちゃん。全く心動かされてません。
続ける三瓶先生。
ここで、2度目以降は、何度見てもぐわっと涙が出てしまいます…。
「当然のことです」ときっぱり、言い放つ三瓶先生。
ミヤビちゃんが医者を続けるにあたって、何が足りないか、この先、どうフォローしていくべきか、まで、多分全部考えてあるんだと思うんですよ。
で、そんなの、当たり前だ、と思ってるんですよ。
「そんな人間、患者を診ちゃだめ」って感覚など皆無。
「大丈夫、ぼくがフォローしてあげますから」なあんて口先のじゃない。
三瓶先生にとって、端っから、あなたの不安な部分は、「ぼく」だけじゃなくて、周りみんながフォローする予定。そんなの、あったりまえのこんこんちき。
だから、言葉が足りなくなるんだね。
当たり前だから説明する必要ない、三瓶先生からすりゃ。
過剰にドラマチックに演じない。
それが生む、淡々と放つ「当然のことです」。ああ、好きっ!
最初に院長に「人手が足りないのにやらせない意味がわかりません」と言ってた三瓶先生。
「川内先生には医者ができる」という考えはわかったけれど、それって「自分の仕事をカヴァーしてもらいたい」「患者を救うためには一人でも医者が必要」って、医師としての正義感のような、使命感のような、そういうことか?
……と、初見には感じたんだったかなあ。今となってははっきり思い出せません。
まさか……実は何より、ミヤビちゃんのことを一番に考えていたなんて。
しかも、ミヤビちゃんのこれからの「医者としての生き方」を提示している。見えている。……そして、実は知ってる、きっと乗り越えられる、ミヤビちゃんの強さ。
人生をあきらめない
「当然のことです」を聞いて、でも全く動かないミヤビちゃん。
ついに立ち上がる三瓶先生。
三瓶先生の顔の影。
来った……
「そんな人間が、患者を診ちゃいけないでしょ」のアンサーだ…。
ミヤビちゃん、驚愕の瞳。
ミヤビちゃんの血の気が引いている……。
「ご自分の…」からは、カメラは一切、三瓶先生の表情を映しません。
ミヤビちゃんの受けた衝撃を克明に追います。
三瓶先生は後ろ姿のまま、すたすたと屋上を去っていきます。
ミヤビちゃんを残して。
ひとりぽっちで、ミヤビちゃんは慟哭します。
本泣きですよこれ……。ああああ切ない。もう、「映さないであげて!!」って叫びたいぐらいの。強く、強く、揺さぶられています。
短いセンテンスで、とてつもなく大きく、えぐってきた三瓶先生。精神科医がいたら叱られそうなぐらいの?強烈パンチ。
しかも、淡々と、冷静に。
ここまでのシーンはもっと、よくあるドラマだと、劇的な場面になるイメージがあります。
泣き叫んだり。怒鳴ったり。音楽うっるさくて。はいはーいここですよ、感動するとこですよ―的な。
「君はそれでも医者か!!」とかさ。ぎゃーっ(笑)
そんな感じのを見慣れてますからね、最初ちょっと、ぽっかーん、だったの、初見はね。
「仕方ないですね」ぇだとぉ? 他人事みたいに小さくつぶやいて。え?行っちゃう?
よくよく聞いたら。
ミヤビちゃんの絶望的な気持ちをちゃあんと理解してる。
そりゃそうなりますよ、絶望、そりゃ当然ですよって。
「だけどあなたは、医者であろうと努力を続けているじゃないですか、知っていますよ」って心の声が聞こえる…。「一緒に頑張りましょう。大丈夫、大丈夫」。
去る表情を追わないカメラ
第1話にして、ここまでくっきりと、ドラマのテーマが語られていたんですね。
絶望の前に何もできなくなる自分と。
医者として、患者を救う自分と。
どちらを選ぶのかと投げかける三瓶先生。人が自分の人生を、あらんかぎり精一杯生きて行くのは当然のことですよね、と言っている。障害が、あろうと、なかろうと。
そして、人と人は、それを支え合うんだと。
そんな世の中にはなっていない。実際には、障害を抱えた人が、周囲の都合で自分の人生を封じ込められてしまう現実がある。
でもその現実は、三瓶先生の前では言い訳として一蹴される。「医者だから」。寄り添うことしか考えていない。
それは、この後、じわじわと、じんじんと、感じることになります。
三瓶先生は、登場の最初っから、最後まで、一切、ぶれなかったんですね。
さて……
カメラは、ミヤビちゃんの慟哭を捉えて、三瓶先生はひたすら小さくなって行き、最後は屋上を出て行く背中が見えました。
ここは、敢えて、三瓶先生を映さなかったのだと思います。
実際私は、主人公であるミヤビちゃんの心情に寄り添っていて、この三瓶先生の小さな背中を追わなかった。
幾多のドラマを見てきた感覚で行くとね、
三瓶先生は第1話じゃまだきっと、本音を語らないはず。
本当は何を考えているか、何が目的か、視聴者にも、ミヤビちゃんにもわからない。
その後、驚愕のっ!どーんでーん返し!!
え!そんなこと考えてたの!?嘘だったの?騙されたあああ!!
………ってなりそうなんだけど。
ドラマの作りによって、例えば、わっるそうな目つきを映すとか、違う方向に誘導されることもあるじゃないですか。何かある!って興味を惹くためのフェイク。
このドラマにはそんなフェイクがなかった、と感じたことは本当に嬉しかった。
どんでん返しで翻弄させられることは、別にいいんです、そういうドラマも楽しい。
だけど、アンメットは違いました。
三瓶先生は、ずっと、三瓶先生でした。一度も、ミヤビちゃんのことだけでなく、私のことも騙さなかった。と思っています。その誠実さが、私の胸を射抜いたんだと思う。
もし、カメラが、去り行く三瓶先生の表情を捉えていたら。どんな顔をしていただろう…。
きっと、三瓶先生も傷ついてる。その場にいられないぐらいに。
三瓶先生にも、結構、賭けだったのかもしれない。
でも。信じてるんだ。「あの日」のミヤビちゃんを。
そして考えてる…次の手を。
それが三瓶先生の、ミヤビちゃんにどこまでも寄り添おうとする、医者としての態度なのだと思います。
続きは22へ。