ちょっと奇妙な過去日記#20ー④アジアの売られる子供たち、かものはしプロジェクト

二〇一六年、私はある文芸誌の詩の賞に応募した。半年ほどが経った頃、編集長さんから優秀賞に決まったとの電話連絡が入って驚いた。編集長さんは小説家で、現役の先生と電話越しにお話しする緊張と興奮で知恵熱を出してしまう程だった。

編集長さんは奇特な方で、病気を持ちながら詩を作る私の人生に興味を持ってくださり、メールで色々なお話をするようになっていた。性被害のことを打ち明け、真摯な返信をいただいたことに感動し、私は詩で性被害のことを題材にしようと思い立った。その詩は、その年の最優秀賞に選んでいただけた。東京の授賞式に参加し、俳優さんにより自分の詩の朗読を聴くという素晴らしい機会にも恵まれた。

加害者を罰することは出来なかったけれど、詩という形で自分の人生を昇華することが出来たことを、とても幸いなことだと思った。私は被害を忘れるべきなのかもしれない……。心の中には素直にそのような感情が沸き起こった。

私はまたアルバイトを始められるまでに回復していた。バイトはやはり数か月しか続かなかったけれど、スーパーのレジで足が震えるということもなくなり、外出は苦手ではあったものの、好きなバンドのライブを観に行くことも出来るようになって嬉しかった。

親と衝突をすることもめっきりと減り、私の人生は穏やかと呼べるものに変わっていた。家ではもっぱら読書をして過ごした。図書館や、アマゾンの古本を買い込み、日がな一日を過ごした。その中に、今でも忘れられない一冊がある。

二〇〇四年に発売された梁石白の「闇の子供たち」だ。舞台はタイ。ヤイルーンは八歳の時に実の親に売られて、タイ北部の貧しい山岳地帯の村からバンコクに連れて行かれた。両親は娘を売った金で冷蔵庫とテレビを手に入れる。ヤイルーンは日本や欧米などの世界中の富裕層が集まる売春宿に連れて行かれ、大人たちの性的玩具にされていた。

一年後、エイズを発症したヤイルーンは商品としての価値をなくし食事も与えられず、ごみ袋に入れられ、処理場に捨てられた。そしてヤルーンが売られた二年後、今度は八歳になった妹のセンラーが売春宿に売られて
いった……(ウイキペディアより)

私は強い衝撃を受けた。読み終えた後も四六時中本の内容が頭から離れず、落ち込んだ。本の内容はフクションではあるものの、ネットで調べる内にこれらの子供たちが本当にアジアに実在することを知った。私は歯ぎしりをした。こんな世界が許されてよい筈はない。

こんな凄惨な世界が日本からほど遠くない国に存在しているのであり、その加害の一翼を担っているのが日本人だという現実に、背筋が寒くなる思いだった。私はずっと自分の人生を嘆いてきた。統合失調症になったのも、これまでこんなに苦しんできたことも、すべては子供の頃に性犯罪に遭ってきたからではないの? それでもアジアの子供たちは、そんな自分の境遇を嘆く暇すら与えられず、より凄惨な人生を歩んでいるのだ……。

何か情報はないものかと思い画面をスクロールさせていると、あるNPOの名前が表示されて目を留めた。「子どもが売られない世界をつくる かもしはしプロジェクト」二〇〇二年に結成された認定NPO法人で、当時大学生だった三人が立ち上げ、カンボジアを拠点として、売られていく子どもたちを支援する活動を始めたものだった。

当時数千人から数万人が被害に遭っているとされているカンボジアで、施設から孤児院に保護された子どもに対してパソコン教室をスタートさせ、後にホワイトカラーの仕事に就く子どもや、海外の大学進学を果たす子どもも現れたという。

二〇〇七年には職業訓練と工房を兼ねたコミュニティファクトリーを現地のNGOと共に立ち上げる。

さらに人身売買や被害リスクの高いストリートチルドレンを保護する孤児院と、カンボジア政府やUNICEFが共同で取り組む警察支援プロジェクトに着手し、資金とノウハウの両面からサポートを行うなどし、二〇一〇年、GDPが急速に伸び始めた内政事情や警察の執行力の向上など、様々な要因からカンボジアで子どもを買うことが非常に難しくなる状況へと道を開いた。

現在かものはしプロジェクトはインドを拠点として人身販売ルートにおける被害者撲滅のために奮闘しているという。

私はこのかものはしプロジェクトの活動を読みながら、背筋が震えてしまった。このどうしようもない過酷な現実に対して目を背けることなく果敢に立ち向かう人々がいること、そして本当に世界を変えてしまったということに、深い感動を覚え涙が溢れた。

まるで私自身が、そっと背に手を置かれたような気さえした。世界は確実に変えられるのだという真理を、私はかものはしプロジェクトから教わった。世界がどうしようもないと手をこまねいているだけではなく、確かな動きを起こすことによって闇は確かに光へと変わるのだ。

私はすぐに毎月の継続寄付を決めた。今は、まだ私は日本からささやかなお金を送ることしか出来ない。でもいつかきっと、私も何かの形で世界を光に変える貢献が出来たら。そう思わずにはいられなかった。

ある時フェイスブックを眺めていると、私の数少ない同級生の友達一覧のページに懐かしい名前を見つけた。その子は中学生の時に両親の仕事の都合でアメリカに渡り、その後も文通を重ねていたのだが、ある時から返信が途絶えていた。

私は彼女から手紙が途絶えたと思っていたが、彼女の方も、私から返信が途絶えたのだと思っており、彼女の最後の手紙がに不具合が起こり、どこかで止まってしまったのだということが分かった。

私達は数年ぶりの旧交を温めた。彼女の結婚生活のこと、私からは障がい年金を貰うようになったこと、それでも今は元気にやっているということなどと話した。私はふと、彼女に性被害の記憶のことを打ち明けてみようと思い立った。引かれはしないかと不安だったが、彼女は私の告白をそのままに受け止めてくれた。

「記憶の欠落も驚きだけど、思い出した時のナオの心境を思うと、いたたまれない。その時のショックや怒り、やり場のない気持ちを心に抱えていたことを思うと、このメッセージを綴っている間も当時の感情がよみがえってきたんじゃないかと、読みながら沈んだよ。

アメリカにいる知人のひとりに、大学在学中に性的暴行を受けてそのまま妊娠しちゃった子がいたんだけれど、敬謙なカトリック教信者だったので中絶という選択肢はなく、そのまま出産をしたの。

生まれてきた子はとてもおとなしい子で、まだ小さいけれど、日本の文化に興味を持ってくれています。この子はその後今のご主人と一緒になって、二人目も生まれて幸せそうに暮らしています。

実は、日本にいる友人の中にも、家族から性的虐待を受けていた子がいて、彼女は大きくなってもパニック障害やてんかんなどを繰り返して大変だったんだけど、去年結婚して今はよくフェイスブックに幸せな家族写真が上げられています」

彼女からの告白はとても衝撃的で、そして自分などとは比べられぬ程に過酷な被害に遭いながらも、確かな幸せを掴み取っている女性たちの存在に大きく心を揺さぶられた。

性的暴行を受けたからといって、不幸にならなければいけない訳ではないのだ。傷は決して癒えることはないかもしれない。それでも心の中で真珠のように膜を重ねて、小さな幸せを幾層にもまとわせるのだ。傷そのものから流れ出るものさえ養分にして。過去はいつかどんな花を咲かせるのだろう。もし咲くことがあるのだとしたら、きっときれいな花なしたい。私は自分の心に新鮮な水をまくように、そっと目を閉じた。

いいなと思ったら応援しよう!