不登校考2024 組織論の思考になってしまったけれどまあ良いか。

 この歳になってくると別に年末にも年始にも特段の思い入れがなくなってくる。そして今年亡くなった人たちのことを振り返るにつけ自分にもそう長い時間があるわけではないことを再度実感するのである。そんな中できちんと向き合っておかなければならない社会問題が多くあることについてその解決を著しておかなければならないことを大人の側の責任というのではないかと再度思うのである。

 これまで不登校に対してたくさん書いてきましたが・・・これはほんの一部であるけれど。

 自分にできることとして一番考えているのは、学校をどうするかということである。それは評論するとか、ビジョンを示すとかいうことではない。もちろん命令するとか運営するとかいうことでもない。(私もそうあがいたこともあったが、それはすでに諦めた。教育委員会の主事とか管理職という人間は、自分たちが未だにそういう事にアタッチメントできると信じている夢想人間であることに気がつくべきだ。まして大学教員はそうした意味での存在価値としてはかなり怪しい。それは自分たちが最も重要だと言っていることに自分たちが最も触れられていないことをわかっていないという非常に危機的な人間の集まりであるということである。
 それは学習指導要領も同様で全く学校現場をグリップできていない代物である。それはどう変わったところで現場の教育実践の中身の多くは全く変わらないからである。今文科省や教育委員会、教育新聞・雑誌がやっていうと言っているように全体の1%以下の変化を誇大広告することに意味はないということである。もし仮に10%単位で学校の日常が一気に今までと違う学習指導要領の形に沿うものに変更されたら子どもが大混乱になってしまうということである。その先においてはクラスルームが困難の溜まり場になり、教育問題のショーウインドウが学校で展開されることになってしまう。そしてその何倍もの保護者が混乱し不安になることになるのである。それは変化するということに対する正常な反応です。そもそも前回の学習指導要領の改訂を今の保護者に説明してもあまりピンときていないし、眉をひそめる保護者も少なくないのが実情です。こんなにカッコの中身が長い文章があっても良いのだろうかと書きながら思ってしまいますけれど。とにかく一律の個別の家庭(教育及びその志向)を一括りにできる教育の実現というのはそれがたとえ35人というクラスルームの単位であっても非現実的ということなんです。)
 そうした経緯を経て私が辿り着いた結論というのは一個の主体としてどういう行動をすれば全体の進行方向に対して最大限のインフルエンスが取れるかという考え方なんです。それはきちんと効果を発揮できてこそ言語化の意義があるのであって、そうしたことをもって(大きな意味での教育の)実践化と言えるのではないかと思うんです。教育関係の言説が机上の空論になりやすいのは実践が物語(嘘と虚飾)であるという側面と認識のずれによる広がりが非本質化しやすいという伝わりにくさの側面に集約されることからくるのではないかということです。

 この不登校問題についても学校とか社会とか(一般的な意味での)家族という視点を捨てる(エポケー)ところから話の始まりがあることを規定しなければならないということです。それは教育問題(言説)の持つ特殊性ということになります。それは考慮に入れないということではなく、それは自明の次元の議論として別空間で完結したものをパッケージ化して提示された上で語る前提にならなければならないということです。そのパッケージの仕方はその構成員の種類によって工夫もされなければならないしアレンジもされなければならない。その意思無くして議論する前提すら整わないし、議論の過程でその話を一旦置いてパッケージし直す作業が入ることも十分引き受けておかなければならないということです。

 不登校の場合にはまずそうしたことに対して固定的な枠組みが社会にも学校にも家族にも存在するということをパッケージする前提が必要です。それがその不登校事例についてどういう議論をするかにとって非常に重要だからです。野球という競技がバットや野球場や守備攻撃の発想は排除できても、ボール(らしきもの)を使うという前提からは逃れられないことに似ています。
 先の記事はいろいろな視点を与えてはいますけれど、そこに不登校を取り巻く人間が考え方を変えるだけでなんとかなるというような非常に楽観的な主張で溢れ始めていることに違和感があります。これまでの主張でも何度か繰り返していますが、不登校がないことと良い教育をイコールで繋ぐことは非常に危険だということです。学校に行くことが教育のゴールはないし、そもそもスタートですらないからです。不登校があっても全体としてはこれ以上考えられないくらい良い教育が行われていることもあるし、きちんと教育が行われていない場でも不登校がないこともあるからです。
 集団的に取り組みとして未然に防ぐメッセージを発した方が良いこととそうしない方が良いことはその集団としてきちんと合意を取る必要があるということです。
 不登校については「起こってから考えましょう、いつでも」という発想が必要だと思います。その時に取れる手立てが多く共有されていて即時に発動するかどうかがその自治体にあるかということです。重要なのはその手立ては即時に子どもにコミットできるかどうかなのですが、今の行政はそうした手立ての手持ちがありません。仕方ないので結局学校に投げ返すという意味不明を平然と行います。しかもそれが指導的な立場として何の予算措置もないまま「連絡事項として」済まされているところです。もしそれが用意できないのなら「市区町村として」うちでは不登校に対する対応は行なっておりませんという広報をしなければならないと思うのです。
 学校にその責任を求める論調が良くないのは学校というシステムはそもそも通学することを前提として設計されているということを忘れていることにあります。(不登校を語る人間というのはこんな当たり前のことですらなかったことにしてから議論を始める傾向にあるのです。家庭は送り出すのが役目であり、学校は受け取ってそれを返す間に成長という名の変化を施していくことを使命としています。それが良いか悪いかを判断することを保護者や政治家には求めてはいない。そもそもそういうシステム設定にはなっていないのになぜか後からルールを変更し、さらに新しく付け加えることが行われる。ルールの訂正が行われるのは誠に結構なことなのだが、それをするにはきちんと熟議のもとにせめて学校の教員の合意が必要になるはずなのです。)
 それを対応しろということは学校を学校ではなくするということを言っていることに他なりません。家庭のように柔軟な集団性を持つものと対等に関わり合うほどの学校には権限も余白も設計されていないということです。これを求めるから教師は無限に責任と愛を拠出しなければならなくなるのです。今それができないよねというイメージの蔓延の結果が仕事としてこれはやめておこうよという話なんだろうということです。

 こんなことがある程度わかっておきながら、教育フォーラムをすることでなんかやっている雰囲気を出すことに注力する行政がダメであるということです。

 しかしやらないものを批判してそのまま放置しておくことを是とすることは(責任あるものとして)できないので、行政についてはこれについてきちんとぶつける場を設定することにします。それは今年度中の宿題ということです。このステップを踏まないままに学校がただ問題の処理を引き受けることは良いことではありません。それをなし崩しに行ってきたからここまで問題が改善されない組織になってしまっているんです。それを実行した上で仕方なく不登校問題と学校が正対するための発想が必要になります。

 ここからは個人的な妄想です。なぜなら不登校のような個別性の強い教育問題も個別対応によって充足する発想は非常に危険だからです。個別性に個別性を持って対応するということをこれまでの学校組織は担任と保護者という関係性で行ってきました。私個人としてはこれが教師の力の高まりによって保護者の満足を伴って解決し実践として表出することが望ましいのではないかと思っています。それが日本型学校教育の昭和から続く伝統であるとも考えているからです。その教師個人の技量というのはこれまでも何度も書いてきた通り生徒指導の観点だというのが私の見解です。それは単純に経験がモノを言う世界です。失敗が許容される世界で醸成されるこの技量はもはや大学でも現場でも得られる機会がなくなってしまった。失敗した時に代わりに謝って情理を尽くして話をする(とにかく私の言う事を聴いてください。そして私の顔に免じてなんとかここは治めてくださいと言う話し方をする人がいなくなった、それをこらえてくれる人たちの集団が無くなったんです。)私のようなおじさんがいなくなってしまったからです。下のもんに責任をおっ被せてほっかむりするような年嵩ばっかりになってしまった。それが嫌な若者は自分が責任をおっかぶせることができるポジションにつくことを志向するようになってしまった。それが今の教育委員会制度をより悪くしているということです。(おっ被されるくらいならおっかぶせる側に回りたいということです。それを簡便に言語化したものが勝ち組負け組という言葉になります。)

 こうした悪循環を今の現場で避けていくためにはこれまでとは違うやり方で不登校対応していくより他ないと思います。
 しかし学校現場で不登校を個別の事象として細分化しないで学校として全体的に対応していくことが可能な学校組織というのはそう多くないはずです。それには学校業務と切り離した形での組織運営が必要になります。私は学校業務をコア、非コアに分けてしまうことにはいささか懐疑的ですが、優先的に考えるのは学級経営のみであると考えます。そもそもそれ以外の業務は学校にとって必要ではない、校務分掌であっても。

 しかしそれに反してまでも対応していかなければならない教育課題というものが学校現場に現れることはよく理解できます。その場合優先順位を決めてその窓口を作るというのは先ほども述べた課題に対する「後の先」であると考えます。これは空手にある発想で良いと思いますが、武道において先に動く者は負けることが多い。最も効率よく勝てるのは相手が動いた後に先手を打つ動きをすることだということに倣います。これは非常に難しいことだけど知識と技量が伴っていればこれだけを愚直にやるだけで良いのです。それは一般生活にも活かせる発想です。なぜならこれさえきちんとやれば拳銃を持っている一般人にはほぼ確実に勝てるからです。(殺し屋は無理ですけど。)

 こうした「後の先」がトリアージに基づいて行える組織というのは確実に合意と了解があり、リーダーシップとフォロアーシップが高い流動性を伴った稼働する組織ということになります。これは見かけ上の結束とは全く違う個別主義を取り入れた結果としての集団にというものになります。これは大人より子どもの方が、より低学年の方が、実現可能だと思います。そうした学級経営をしている場を何度か見たことがあるからです。「優しくしろ」とか「仲良くしろ」とは一線を画した集団ということになります。そうしたシビアでドラスティックな関係性の中にこそ成長のタネがあるということです。そこはいくら本気の失敗をしても許容してくれるマイスターがいるのですから強いです。心理的安全性が枠組みとしてグリップしている学習集団でなければいくら授業改善しても結果は同じです。逆にそれがあれば学習内容などどうでも良い、そうしたアプローチできる集団は離脱に対してもグリップできるはずです。

 問題はすでに不登校が前提として埋まったまま登校しているだけの状態やその子が課題として持っていることに対して気づいてなかったり、問題化していなかったりすることや学級経営の失敗による顕在化にあるということです。これは実はどんなに上手く学級経営を行っていても如何ともし難い問題であります。私はこれ以外の不登校には不登校単体としての取り組みを必要としないと思っています。少なくとも学校組織としては。いじめや生徒指導上の課題、家庭の問題を含んだ不登校というのは不登校としてのアプローチが悪影響を及ぼすことが多いからです。クラスルームの他の子どもに対してもよくない。本人に対する周りの目もそうだし、本人の欲望を他の子どもが己の欲望としてしまう可能性があるという意味からもそうです。

 それを全て同じ問題として対応するのではなく、一人の窓口が問題の所在を見立て分類してしまうということです。そして分離してしまった問題というのは早急にその自治体が持つ機関に丸投げしてしまうということが必要ではないかということです。そうしなければ学校という組織が学校としての成立要件を否定する行動をとらざるを得なくなってしまうからです。それを排除であるとか人権問題であるとかいう指摘については当たらないと思います。これはどこかでも述べたけれど日本の恥文化というのはこうした者全てを内包することによって問題解決を図りがちですが、それは誤解だと思います。日本哲学においては無とか空とかいう発想がなければ恥にたどり着けないからです。西洋的な合理的組織である学校がこうした空を内包できるはずがない。それに無理やりを持ち込めばどこかで不全を起こすのは非常に合理的な帰結です。もちろん学校はそうしたことに対してもさまざま奇跡を起こせる必殺技を所持してはいるけれどもその発動要件としての社会的合意がどうも変わってきてしまった。単純に言えば日本人らしく無くなってしまったということです。

 不登校問題に学校として対応するなら、こうしたトリアージと分離が不可欠です。そして行政のきちんと予算措置をした受け皿が必要です。それが用意できない自治体は子育て世代の受け入れを止めることが誠意だと思います。出来もしないこと、やりもしないことを口先三寸で喧伝する自治体が増えました。明石市の真似をしているのでしょうけれども、これは明確に萎んでいく。そんな一朝一夕でできるほど簡単な話ではないからです。しかも税収だけを考えるだけの助平根性とも相性は悪いからです。褒められもしない見向きもされないことを継続して気づく人だけが気づく、私のnoteのような存在を議会が承認するはずがないからです。
 すぐ効果の数字やエビデンスの話ばかりするエセ知識人ぶる政治家など存在価値がどの辺にあるのかということです。おそらくそういた人間には不登校というものの本質の触れることができません。
 そうした自治体が限界化していくことはこれからは不可避だと思います。すでにいくつかの大都市でもそういた傾向が出始めているからです。人はエビデンスで居住するわけではないからです。

 少なくとも学校だけがまともな視座を持って、不登校と正対していくことができると思っています。日本の出世しない教師の中にはそうした人材が含まれている。若手の中にも確実にそうした人材はいるんです。そうしたマニュアル本も書かず、読まない「もののわかった」教職員を見抜いていける保護者になってもらいたい。それがイマニエル・カントのいう「未成年でない」大人なのだろうということです。

 日本にもう一度知性を自分で用いることのできる大人を増やしていくこと、そういう大人教員と個別に協調していけることが不登校を打開する手立てなのだろうということです。別に仲良しでなくてもいいし、協力する必要もない。そういう同志が確実に(友達の一人もいない私にも)いるんです。別に届いてなくても、理解されなくてもよいからそうした筋について書き続けるということに徹した2024でしたとシメです。

 フォロワーの数などで競って、煽っても意味がない、そういうことです。マニュアル本出版社さんよ。

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