がまくんの「あー」には3つの意味が!?どうでもいい。

 こんな無駄なことを言っている大学教員がいるらしい。ミスリードも甚だしい。
 大学教員の身分をかたってこんなことを発言してしまうことに責任を感じないのだろうか?学問的な根拠もコンセンサスもない。個人的な感想である。そしてそれを信じる小学校教員がいるんです。

 アーノルド・ローベルのがまくんとかえるくんシリーズというのはさまざまありますが、その最も教科書採用が多いのが「お手紙」ではないかと思います。最近は「おちば」も使われているようです。

 その「お手紙」をどう指導するかという「研究」する仕事が存在するということはもしかしたら一般的ではないのかもしれません。最近は学校教員にとってもそう当たり前の話ではないのかも。

 教育方法学が学として妥当かどうかは個人的には非常に疑問でもあります。厳密に言えば教育方法学の中で取り上げられている教材に対する研究の中にはそもそも研究対象としてふさわしくないものや研究方法として疑問符がつくものも少なくないからです。
 エッセイや日記、感想としてならまだ読むに耐えうるような代物が堂々と研究結果として学会発表されていたり、査読紀要に掲載されていたりするわけです。それどころか教職大学院では修士論文として掲載されているところまであります。

 これを大学教員の研究結果として公に出すことを恥と考えないのだろうかということです。
 そしてこうした人間たちが学校関係者向けの講演をするときには話す内容はもう無茶苦茶です。そもそも教科書会社が提供する解説書(という名の教え方マニュアル)には自称デキる教師たちが書いたどうでもいい解説が朱書きという形で書かれています。この全てが悪いとは言いませんが、ほとんどが役に立たないことばかりが書かれています。

 そもそも小学校2年生に「お手紙」の待つ楽しさと身近にいる友に気づかなさを理解することは難しいです。
 この「難しい」というのはやらなくていいとかわからなくていいということではなくて全員が到達する目標(いわゆる到達目標)に設定しなくていいという意味で、です。こうした文学表現や主題に触れ合うことが読みや解釈の基礎や他者の心情の機微に対するアンテナを育てていくからです。おそらくここまでは皆共通に考えることなのですが、なぜか日本の国語教育はここから見事にごちゃ混ぜになっていきます。この先に自分のメシのタネを追加するために大学教員や自称デキる教員が勝手な妄言を追加して、学術的であると言い張ってしまうためです。正直国語教育研究には学問としての怪しさしかありません。(言語学的なアプローチを除きます)個人的意見で恐縮ですが教員養成系大学では国語教育研究部門は廃止するべきだと思っています。私は読解力は国語で育つ力ではないと思っているからです。

 その好例が今回お出しするがまくんが「お手紙」で最後の発する「あー」なんですよね。この「あー」の意味は何か?これは心理学分野の人間がよくやる目眩しそのものです。有り体に言ってしまえば答えのないことにさもそれらしい理由を付け加えて仕上げる心理テストのようなものだからです。ブレインストーミングやアイスブレイクもそうした側面があります。
 「あー」の意味は教える方が考えるのではなく、教わる方が考えることです。そもそも正解などありません。正解を(勝手に)作ってマウントを取ろうとすること自体が大学教員や研究者がよくやる捏造です。STAP細胞がその好例でしょう。

 しかもこの文章全体において読みの中心としてこの「あー」で心情の変化、気づきがあったとするのは良いと思いますがそれ以上のツッコミは不要だと思います。
 これが先ほど述べた国語教育のごちゃ混ぜの正体である「深読み」だと私は考えます。深く読むことは結構なことではないか?と思われるかもしれないけれど、深読みは深く学ぶこととは同義ではないからです。100歩譲って深読みするのが学ぶ側ならまだ良いのですが、教える側が深読みを開陳する利はありません。一般的な読みや子どもらしい読みから遠ざかってしまうからです。
 同時に学校教育に対してあまり突出したことを望まない保護者が一定数いることも事実だということです。
 またこうしたことに時間を割くように強要するこうした読みは教員にとっても子どもにとっても時間の無駄です。教員の授業づくりのための準備に時間がかかるようになった一因にこうした意味がわからない「深読み」があります。こうしたことを採用しようとすると思考の無限ループに落ちる上に元に戻ったときすごくいい考えに到達したように錯覚します。だったら最初から梵字徹底でいっておけば時間を掛けずに済んだのに、という話です。

 国語教育の「深読み」は誰も幸せにしません。マニュアル本を売りたい人間と出版社だけが金銭的に得をします。国語こそシンプルに個別最適化させるべきです。そうした意味では国語は音楽や体育・図工などと同様に個人的な方法が優先される側面が大きい教科だということができるのではないかということです。
 こうした一律的な読みの手法のようなマニュアルを排してこうした妄言を吐く大学教員や私立小学校教員、附属学校教員、自称デキる教員から日本の国語教育を取り戻していかなければならないなぁと思う今日この頃です。

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