沈黙の75日⑨
弥生ちゃんが引っ越しをするらしい。
そう聞いたのは、それから一カ月半を過ぎた頃だった。
水を浴びせた子たちとは、お互いのしたことを謝って仲直りをさせられてからは、もちろん喋ってはいない。クラスに戻っても、私は変わらずに一人だったけど、不思議と寂しくはなくて、あんな事をやらかしたのに、なぜか心はすっきりとしている。そんな自分が怖くもあり、可笑しくもあった。さすがにもう嫌なことをしてくる子はいない。
弥生ちゃんはもう、このまま学校には来ないのだろうか。
私は居ても立っても居られなくて、家を訪ねてみようと思い立った。
川沿いの土手を歩く。お母さんと弥生ちゃんと三人で歩いた道。家まで送るよ、と言ったのに一人で走って帰ってしまった後姿の記憶をたどりながら、必死に探す。だけど一向に見つからない。
ゆるく長い坂道を登りながら、住宅街の一軒ずつの家をのぞいていると
「どこの家を探してるの?」と声がした。
振り返ると中学の学生服を着た男の子が立っている。地域の中学校は、小学校からも近い。制服には見覚えがあったのだ。
なんていう名前の家?と聞かれた。
腫れぼったい薄ら目の一重瞼。眉も薄いせいか、何だか顔がはっきりとしない。
「えっと…青木さん。青木弥生さんのお家です」
顎を撫でる指がクネクネと動く。時々にやける口元をおさえる仕草が気持ち悪い。なんだか怖くなって「もう大丈夫です」そう言って帰ろうとした時、ランドセルを後ろからガシッとつかまえられた。驚いて振り返ると「それ、ウチ」と彼は言った。
連れられて着いた家は、大きな庭、お城みたいに白い壁、見上げる高さの門があった。
表札は青木ではなく、白井と書かれていた。
「あぁ、ウチの母さんは結婚して白井になった。母さんのお姉さんの子どもが弥生。だから苗字が違う。わかる?」
さっきから、ずっと馬鹿にしたような言い方をする。丁寧に教えてくれているようで、おもしろいオモチャを見つけたような扱いだ。我慢しながら、私は弥生ちゃんを呼んでもらえるように頭を下げた。
いいから中に入って、と言われたけど、子どもだからって、そこまで人を信用しちゃいけないことくらいわかる。必死に首を振って、けっこうです、と強く言い続けた。
男の子は、ふんと鼻を鳴らして気に入らない様子で家に入って行った。しばらくするとピンクと茶色のワンピースを着た女の人がやってきた。さっきの男の子にそっくりな薄い一重瞼の目をしていたから、すぐにお母さんだとわかった。向こうは、誰だろう、というような素振りでこっちを見たので、私はぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「あの、弥生ちゃんに会えますか?」
あぁ…と、にやつく口元まで、そっくりだった。
「弥生はね、今はよそに預かってもらってるのよ」
「え…よそって?」
「姉の夫…弥生の父親の親戚にね、お願いして預かってもらったの。元々、手がかかる子でね。私も最初から引き取るつもりなんてなかったんだけど…」
「あ、あの…いつ帰ってきますか?」
すがるような食いつきを見せる私に、もったいぶる手つきで顎をさすりながら
「さあね。私たちはもう、引き取るつもりはないから。色々と手続きが済んだら、このまま荷物を送って向こうに移ってもらうつもりだけど?」
くるりと巻いた毛先を耳にかけると、大きい丸い球のイヤリングが揺れる。なんだか鼻にまとわりつくにおいがすると思ったら、この人の香水がその場にたちこめているのだ、と気づいた。
「どうして…」言いかけて口ごもる。私は何を言おうとしているのだろう。
「どうしてってねぇ、私が言いたいのよ」
キンとつんざくような尖った声が、頭の上で響いた。
「あの子の親は…私の姉はね。両親の期待を裏切って、男と駆け落ちをしたの。あんな何の価値もないような男に騙されて、勝手に出て行ったあげくに子どもまで産んで。それでいて、二人して死んじゃうなんてね。まぁ、そこまで好きだった男なら一緒に死ねて幸せだったのかもしれないけど。弥生だけ…一緒に車に乗っていたのに一人だけ助かるなんてねぇ…あの子もとことんついてないわ」
唾を吐き捨てるかのように、次から次へと汚い言葉がこぼれ出る。弥生ちゃんの悪口。お母さんお父さんの悪口。聞きながらずっと身体の震えが止まらない。けれど、どうしてもこの人の前では泣きたくなくて、お腹の底から沸きあがってくるものを、何度も呑み込んだ。気持ちの悪いにおい、嫌みっぽい声。意地悪でたまらない。吐きそうだ。
「一人ぼっちになった弥生を両親も引き取りたくないって言うし、しばらくは男の方の親戚で、あちこち行ってたみたいだけど…どことも上手く行かなくて、仕方がなく私が引き取ってやったの。それが、あっという間にこのざまよ。やっぱりどうしようもない二人から生まれた…」
夢中で坂を駆け下りていた。挨拶も、頭を下げるのも忘れて。転げ落ちるかと思うほどのスピードで、走り去っていた。少しでも早く、あの人から離れたくて、離れたくて…
下り坂の終わりが見えた頃、足元が絡まって、よろけた拍子に吐いた。何度も、何度も。涙と鼻水で、顔がぐちゃぐちゃになったまま、吐きつづけて、その場にうずくまる。
「弥生ちゃん…弥生ちゃん…」
声にならない声で、私はずっと名前を呼び続けていた。 つづく