アロマンティック・アセクシャル自認の過程

始まりはこちらのツイートだった。

"性別に関係なく他人との接触や接触を想起させる雰囲気が苦手で、恋愛対象として見られたり性的アピールを感じると気持ち悪くて(いわゆる「生理的に無理」)その場から消えたくなるの、ただの潔癖症だと思ってたけどアセクシャルやノンセクシャルって認識の仕方もあるのかと今さら気付いた👶"

本来であれば元ツイのリンクを貼るべきところだけど、アカウントごと削除されたのか見つけられなかったため
個人的にスマホのメモ帳へコピーしてた文章を使用させて頂いている。

件のツイートを見かけたのは、数年前のことだったかと思う。ここから「アセクシャル(誰に対しても性的感情を抱かない)」「アロマンティック(誰に対しても恋愛感情を抱かない)」を知った。

いちツイートをいいねするだけでは収められず、メモ帳にも残していたあたりからも、当時の私が受けた衝撃の強さが伺える。

こちらをきっかけとした、現在までの思考の迷走を書き留めて置こうと思う。

ツイートの共感点


先程のツイートについて

「恋愛対象として見られたり」すると「気持ち悪くてその場から消えたくなる」という部分に身に覚えが猛烈にある。

恋愛込みの「ライン交換しようよ」とか「今度どっか遊びに行かない?」とか言われるの本当にしんどい。「日曜日映画でも行かない?」なんてライン来たらトーク消去する。

映画に行くこと自体が嫌なのではなくて、映画を踏み台に恋愛関係に持ち込もうとしているのでは?というかすかな可能性が既にしんどい。

妙齢の男女がラインを交換することは、必ずしもそういった恋愛関係に繋がらないのも分かる、と思う。単純に友達としてだったり連絡のためだったり。

とは言えやり取りしていて、そこに一瞬でも「あわよくば」とか「次に進めよう」みたいな恋愛のにおいが見えた瞬間に嫌悪感が芽生えてしまう。

自認前の思考①


私は、自分に向けられた恋愛感情に嫌悪感を抱く。そのことを、交際していた時期に痛感した。

交際するとなると、相手の方とラインであれ電話であれ外出であれ、とにかくコミュニケーションを取らなければならない。

コミュニケーションを取る際、常に頭の中には、どう振る舞うのが正解か?が居座ってた。一秒でも早く帰りたくなり、トイレに立つのが安らぎだった。つかの間のSNSで息継ぎしてるような状態だった。
とにかく恋愛関係という状態がしんどい。疲れる。異様な疲弊。
そこに心地よさは決して抱けなかった。
ましてや性行為を求められるのは、何万倍も嫌悪感を抱いたし、心の底から不快だった。

時が流れたら自然と相手への思いがわいて来るだろうと期待したこともあったものの、微塵も生まれない。ひたすら平らかな胸中。
相手から向けられるものを同じように返せない。量の問題じゃなく、いつまで経っても戸惑うほどの無だった。
自分は人でなしだなぁ、という実感が日に日に積もっていった。

自認前の思考②


負の感情を書き連ねてきたが、恋愛感情の存在そのものを忌避している訳ではない。
周囲の人々が恋愛の話題で盛り上がっていたら、映画を見ている気持ちで興味深く耳を傾ける。

漫画や小説であれば、恋愛描写にうおーー~~!!!と滾る。密かに秘めていた想いが成就…とか大好きだ。

友人知人の話も、創作物も、完全によその世界のものとして楽しんでいるのだと思う。
ただ、これが自分の枠に入ってきて欲しいとは全く思えない。

見聞きする恋愛とは、たゆまぬ努力を継続して自分と相手の関係の特別性を維持出来る能力者の間で行われるものなんだなと思っていた。
そして、いわゆる「尽くす」と言われるように、たゆまぬ努力を継続できるほどの者ではないな、とも思った。恋愛も結婚も、努力できる大人の人々のお話という感覚。
なるほど、自分の精神的未熟さゆえに、恋愛感情が芽生えないのかと納得していた。

仮説とアロマンティック/アセクシャルの適合


かつての交際時に自分へ失望したことも手伝って、恋愛とは特別な努力の能力が発揮されてこそ保たれるものだと認識していた。

例えば、プレゼントやデート、こまめな連絡などは、どちらかというと義務感からやってるのかと。しかし、周囲から話を聞いていく内に100%そうではないらしい。と気付き出す。

「出かけたいなと思うから」デートの提案をし、「話したいなと思うから」電話をする。らしい。

恋人としてしなければならないから頑張ってするのではなくて、したいからする。

もちろん円滑な関係のために義務の面もあるだろうけども、それよりも、「恋人とのコミュニケーション欲」によるエネルギーから行動をした結果で、恋愛関係が保たれているのかもしれない。
この「恋人とのコミュニケーション欲」のエネルギーを恋愛感情と呼んでいるのかもしれない。

かねてより立てていた仮説と、アロマンティックという言葉を重ねたら、私は「努力出来ない人でなし」「未熟な存在」ではなくて「恋愛に対するエネルギー源をそもそも持ってない」=「恋愛感情がない」=「アロマンティック」なのかもしれない。
こうやって、おぼろげに自認した気がする。

自認の補強


以前「彼氏ほしくないの?」という話題から、「もしも世界に女しかいなかったら付き合う?」と聞かれたことがある。

その場では濁したものの、誰かと付き合う前提なのが不思議だった。

本当に好きな人なら違うかもよ、と言われることもある。

まだ出会ってないだけだよ、とか趣味が合うと違うんじゃない?とか。

確かに経験値をたくさん積んでいるのかと言えば全くそんなことはない。

でも、仮に本当に好きな人がいるとして、運命を探す労力がもったいない。そこまでして?何のために?と恋愛の必要性を感じられずにいる。


もしも、私が恋愛感情を持たないアロマンティックだとしたらあの異様な嫌悪感や、いらなくないか?という気持ちの収め所が出来てすっきりする。

現在


もしかしたら、自分が他人のためにエネルギーを注げない人でなしじゃないと言い訳をしてるだけなのかもしれない。

もしかしたら、恋愛出来ないんじゃなくて持ってないんだ!とセクシュアリティを盾にしてるのかもしれない。
己の未熟さの逃げ道にしているのかもしれない。

今でもよく分からない。

それでも、自分の心の置場所としてしっくり来るので、言葉に寄りかからせてもらっている


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