アロマンティックによる浅井リョウ「正欲」感想
共感のコンボを受けたと思いきや、多視点の語りによって、私自身の驕りまで洗い出される本だった。
よかった~~!の感覚をしっかり見つめたくて、note にまとめてみた。
以下ネタバレ満載ですので、未読の方はご注意下さい。
異性への恋愛感情が前提の世界で
まずは、語り手のひとりである夏月から見ていきたい。彼女は水に性的に興奮するという特殊性癖をひた隠しにしながら寝具販売店に勤めている。
とかく夏月視点がいちばんの共感のコンボだった。
正欲では、このフレーズが何度か登場する。
世間の描く人間のイベントは、モテること・恋愛・結婚・出産・子育て・嫁姑問題・相続といった、恋人→夫婦→家族それぞれの段階に合わせて発生している。
恋愛感情と/性的欲求を/異性に抱くという、少なくとも3点もの要素を満たしているのが当たり前だとして回っている世界における、夏月の息苦しさは身につまされた。
私は他人に恋愛感情を抱かないアロマンティックと、他人に性的欲求を抱かないアセクシャルを自認している。
だけれども、手に取った商品には「愛されマスカラ」と書かれていたり、お気に入りの服を着ていたら「今日はデート?」と聞かれたりする。映画館に行けば夫婦割引がある。好きな芸能人を答えたら「そういう人がタイプなんだぁ」と勝手に納得される。
例を挙げればきりがない。それぐらい社会は男女の恋愛関係を前提として回っている。
また、もう1人の語り手である大也にも、共感するエピソードがあった。
大也も特殊性癖を持つ男性であり、
彼が、AVに頻出するプールを知らないなんて男じゃないなどとからかわれる場面があった。
それを読んだ時、私はかつての会話を思い出した。
とある商品が「あれの名前に似てない?」と話題に挙がった際に、
「あー」「分かる」「あれね(笑)」と、同席したみんなは流れるように暗黙の了解をしていく中で、自分だけがピンとこなかった。
後になって分かったのだが、「あれ」とは妊娠検査薬だった。
アセクシャルの私には一生関わりのないものが、みんなの常識の一部と思い知らされた瞬間だった。
日々、どれほど大衆からはみ出さないよう注意を払っていてたとしても、思いもよらない部分で非常識者となる。
世間と過ごす日常は、夏月や大也、そして私にとって「無事に乗り切ることだけを考え」なければならない非日常だ。
それは確実に疲弊を蓄積させる。
諦めと寂しさ
周囲とのズレを直そうと奮闘した時期もあった。しかし世界の大前提が違うと、感覚から違う。
「彼氏ほしくないの?」に対して、「恋愛はいいかな~(笑)」と言えば
「えー!なんで?」「積極的にならないと!」「あなたならいい人いるって!」と返ってくる。
恋愛感情がわかないという私の事実は、 「彼氏探しを休憩している人」になってしまう。彼氏が欲しいと私は一言だって言っていなくても、だ。
だからこそ
夏月がこうした諦めの境地に至るのも分かる気がする。
夏月は諦めている一方で、周囲と違うことで寂しさも抱えている。
自分の中の大きな差異の存在を受け入れ、世間には馴染めないと覚悟したつもりであっても、孤独感から完全には逃れられない。
どうしようもなく生まれる寂しさを埋めるため、夏月も、その他の登場人物も、誰かと繋がりたいという欲求が描かれる。
同じ性癖の者とTwitter上で繋がったり、動画配信でコメントに一喜一憂したり、契約結婚の道を選ぶ。
もしも生命維持が覚束ない状態なら、孤独に苦しむ余裕はないだろう。
ある程度衣食住が満たされているからこそ、心の栄養も求めてしまうのかもしれない。
理解されることの諦めと、孤独。矛盾した感情が共存する姿も、強く共感させられた。
「多様性」の傲慢さ
夏月が、両親から聞こえよがしに投げられる「結婚だけが人生ではない」「最近はLGBT?流行ってるね」や
テレビの「新しい価値観に対応しないと」といった言葉にげんなりするシーンがある。
現実でも同じだ。とみに多様性の尊重を耳にする機会は増えた。しかし実際はどうか。
例えば日常会話で「最近厳しいから」「そういうのは今時」と苦笑いで言葉を濁す場面にしばし遭遇する。
最近も何も。今時も何も。マイノリティはずっと生きていたし、同じように生きているというのに。
マイノリティを一時的なものとしてもてはやし、自分が差別的な人間だと責められるのを恐れて、仕方なく口を閉じる。
大多数が労れる範囲内のものを、大多数の生活が乱されない範囲内でのみ適用される「多様性」とは。果たして言葉の意味を保てているのか。
自分の傲慢さ
しかしこの本は、マイノリティの愚痴だけで留めてはくれない。
夏月たちマイノリティの語り手に共感しながら、ふとひやりとさせられた部分がある。
同じだ、と思った。
夏月がこう感じていたように、普段の私も、交際相手と喧嘩をしただとか、夫への不満だとかの話を熱心に頷きながらも「自分が選んだのに?」「それほど嫌なら別れたらいいんじゃあ…」と心の中で思っていた。
恐ろしいのは、自分の抱える感情を全て理解されることはないと多くの人は知っているのに、
こと立場が逆になると、他人にもそれぞれ他人が把握苦しみがあると忘れてしまうことだ。
パートナーの不満を漏らしていたあの人たちにとって、相手との関係の不和は、決してささやかな悩みではなかっただろうと想像することを止めていた。
そして「恋愛感情に振り回されている人」として、どこか見下していた。
そのことを自覚させられた。
いつかの私のために
世間に対して、「表面的な多様性を掲げて差別している」と苛立っていた他でもない私こそ、差別をしている。
私には、恋愛感情の素晴らしさも、恋人関係ならではのしがらみも、子育ての辛さも分からない。分からないまま、「そのパートナーを選ばなければ、産むことを選ばなければいいのに」という考えも確かに持ってた。
他人が抱える塊の大きさを、重さを、中身を知ることはできない。
できなくとも、相手の塊の存在に思いをはせることは出来る。
自業自得だ自己責任だと、自分の価値観の包丁で、他人を切り落とすのは簡単で気持ちがいい。ごみ箱の中は、自分と関係がないからだ。
でも、もしも自分が、かつての自分で作ったごみ箱の中で生きていくこととなったら。かつて自分が投げつけていたのと同じものをぶつけられたら。
私に未来は見えないから、可能性はゼロと言い切れない。
そんな、いつの日か存在しうるかもしれない「私」を、せめて傷つけない私でありたい。
未来の私を守るための私。結局は自分が一番なのだ。恐らくこれは変わらない。
今の私に加えて、「いつかあり得るかもしれない私」も守る。
この、どこまでも自分のための感覚を突き詰めた先で、今を生きる誰かの生きやすさに繋がるかもしれない。
生きやすさの循環が、いつか巡りめぐって自分へ届く日を心待ちにして。
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