見出し画像

「1時間もたたないうちに、音がガラッと変わったのです」――小林まりか先生(1)

今回は、チェリストの小林まりか先生をご紹介します。小林先生は現在、北浦和にあるロイヤルミュージックガーデンでチェロを教えているほか、都内の教室でも指導をされています。学生時代に米国に留学後、スペイン・バルセロナでもルイス・クラレット先生のもとでチェロの研鑽を積まれました。これまで国内外の著名な音楽祭に数多く参加された経歴をお持ちです。また、室内楽にも大変造詣が深く、近年は自主企画の演奏会で室内楽の演奏をされたりもしています。
そんな小林先生に、幼少期から大人になるまでの音楽との関りについて、お話を伺いました。小林先生のプロフィールはこちらをご覧ください。

今年は自主企画「音楽の旅」という連続公演に挑戦中

――先生の現在の音楽活動について教えてください。

教室でのレッスンと、ソロ、室内楽の演奏会がメインの活動です。

――レッスンでは何人くらいの生徒さんをみていらっしゃいますか。

全部で18人くらいです。週の二日が北浦和のロイヤルミュージックガーデン、もう一日は東京の別の教室で教えています。自宅でもレッスンをしています。

――室内楽の演奏は決まったメンバーがいらっしゃるのでしょうか。

特に固定のメンバーがいるわけではありません。ここ数年は、東京で教えている教室のバイオリンの先生が企画してくださったサロンコンサートで演奏したり、ヴァイオリニストの糸井マキさんと二重奏を演奏したりして、年に2、3回といったペースです。今年は自主企画の『音楽の旅』というシリーズで、5月にはソロコンサート、8月には、ラフマニノフのソナタとショスタコーヴィチのトリオを含んだ室内楽の演奏会を開催しました。室内楽は糸井さんとスペイン時代の知り合いのピアニストを招いて演奏しました。

――オーケストラの活動には参加されていますでしょうか。

昨年11月に、新潟のシンフォニエッタTOKIの定期演奏会に呼んでいただきました。アメリカやスペインに住んでいた時も常にオーケストラで弾いていました。今回は、日本に帰ってきてから初めてのオケでしたが、大変レベルが高く協力的な雰囲気のグループでした。

幼少期、「音楽家を目指すことが当たり前の環境でした」

――小林先生が音楽を始めたきっかけを教えてください。

わたしの家は両親が音楽家なので、いつの間にか楽器を習い始めていました。楽器をやることは自然に決まっていた感じでしょうか。母はピアノ、父はバイオリンの演奏家です。父は家では常にレッスン、リハーサル、自分の練習を夜中までやっていました。

ピアノは5歳くらいから始めたのですが、どうやら自分でやりたいと言ったらしいです。でも、練習はあまり好きな方ではなかったと思います。

――ピアノは本格的にやっていたのでしょうか?

レッスン間際になって慌てて練習する感じでした。練習しないと遊びに行けないのに練習が終わらず…いつもふてくされていましたね。でも、好きな曲を弾いたときのことはよく覚えています。

――チェロはいつごろから始めたのでしょうか。

小学5年生のころ、ピアノ先生から、あなたは腕の力が弱いのでピアノはやめた方がいいと言われてしまいました。音楽をやめてしまうのはもったいないので、そのくらいの歳から始められる楽器ということで、チェロになりました。

本当はわたしは管楽器をやりたかったのです。でも、管楽器奏者はたくさんいて競争が激しいから仕事がない、と親に言われました。親が音楽の世界のことを知りすぎていたので、そんな先まで見据えられていたのです。

今はチェロを弾く人はたくさんいますが、そのころは珍しかったです。ピアノやバイオリンは3歳ころからやっている子がたくさんいました。そのころからやっていないと将来食べていくのは難しいと一般的に考えられていました。チェロをやれば、両親と一緒に室内楽を弾けるようになるという話もあり、それが一番の目標になりました。


蓼科の音楽祭で両親と共演(2006年夏)

――小中学校のころの学校生活はいかがでしたか。

小中は越境して他の区立の学校に通っていました。5年生のときに桐朋の音楽教室に入りました。ピアノで入ったのですが、先ほどのような話があり、すぐにチェロに転科しました。中学校に入ると同時に、音楽高校受験の準備に入ります。聴音、ソルフェージュ、楽典の勉強。すでに音楽のコースに乗っていました。

――ご自身でも「音楽をずっとやっていくんだな」という気もちで過ごしていたのでしょうか。

もう当たり前のことで、疑問にも思えないような雰囲気でした。自分は音楽が好きなのかとか、職業として向いているのかなど考える機会がありませんでしたが、自発的に練習は一生懸命やっていました。

――その後、桐朋女子高等学校音楽科に入学されました。そのころ、「将来こんな演奏家になりたい」といった目標はありましたか?

周りのだれも将来の話はしていなかったと思います。私もひたすら試験や発表会など目の前の目標のために練習していましたね。バイオリンやピアノの子たちはコンクールや試験の話で盛り上がっていましたが、チェロ科は和気あいあいとしていて、コンクールは特別な人だけ受けるものと思っていたような記憶があります。自由な高校生活を満喫しているばかりで、将来のことは考えていなかったように思います。

――高校生活は楽しかったですか?

学校がすごく刺激に満ちていました。音楽専門の先生方から授業で色々な話を聞く機会が常にあり、先生方ご自身のキャリアの話や留学の話、ヨーロッパの話などをしてくれました。音楽理論もいろいろな科目があり、さまざまな角度から演奏や音楽について考える機会がありました。海外から招かれた著名な音楽家のマスタークラスを受けたり、オーケストラも、学内の指揮者の先生方もエネルギッシュでしたし、海外からもジャン・フルネ、シモン・ゴールドベルグのような一流の音楽家がきて指導を受け、演奏会をすることができました。

また何よりも嬉しかったのは、心置きなく音楽の話ができる仲間ができ、自分よりもはるかに熱っぽく音楽について語る学生がいて、感化されました。

授業では、高校生にしては難しい抽象的な話もありました。良い演奏とはどういうものか、どんな勉強をしていかなければいけないか、など。そのときは、何を考えなければいけないかわからなかったと思いますが、自分の中で引き出しがいっぱいできていったと思います。みなで一緒に夢中で吸収しました。

クリーヴランド音楽院に留学、「チェロのスタンダードレパートリーに夢中になりました」

――高校卒業後はアメリカに留学されましたね。それはご自身が希望したのでしょうか。

そのころは、先輩で高校を卒業したら留学をしていた人たちがまわりにたくさんいました。両親もアメリカに留学していましたので、それが自然な流れでした。私自身は、学校の先生方からヨーロッパの話をよく聞いていたので、自分もヨーロッパに行きたいと思っていたのですが。でも、今考えれば、父の知り合いのいるアメリカの学校に行って、とても大事にしていただけたので、ありがたい環境でした。

まずオハイオ州にあるクリーヴランド音楽院に行きました。4年でBachelor(学士)の学位が取れます。その後、ニューヨークのマネス音楽院でMaster(修士)を取りました。

――学校はどのように選んだのでしょうか。

叔母がアメリカに住んでいたので、知り合いのオケのチェロの人に、今一番良い先生は誰かと聞いてもらいました。すると皆口をそろえて、クリーヴランド音楽院のアラン・ハリスが良いと教えてくれました。そうしたら、たまたまクリーヴランドで教えていた父の留学時代の同級生が、その先生と知り合いだったのですね。そんな縁もあり、クリーヴランドで学ぶことになりました。

――クリーヴランドではどのような生活を送っていましたか?

大学入学以来、練習をたくさんしていました。特にクリーヴランドは学ぶための、とてもモチヴェーションの上がる環境がありました。生徒は家から通っている人はおらず、みな寮か下宿。一日中学校で練習しているような生活です。練習の合間には仲間同士で集って弾き合いをしてお互いにコメントし合ったり、お互いのリサイタルにかけつけたりしてサポートし合っていました。

チェロクラスは、門下生全員が週に1回集まるマスタークラス形式のものがあり、それがすごくいい経験になりました。そこでは先生だけでなく、生徒がお互いにコメントし合ったりします。先生は、コメントの仕方についても講義してくれました。

チェロの奏法は一からやり直しになりましたが、チェロのスタンダードレパートリーに取り組めることに夢中になりましたね。初めてシューマンを弾き、ドヴォルザークを弾き、ベートーベンを弾いて、バッハを弾けるようになって。室内楽でも、難しさはお構いなしにブラームスやメンデルスゾーン、バルトーク、ドビュッシー、ベルグなどの偉大な作曲家の弦楽四重奏の作品を勉強できたことが一番のインスピレーションでした。

クリーヴランド音楽院の卒業式。アランハリス門下生とともに(1994年)

――それだけ音楽にどっぷり浸かれるというのはうらやましい環境に思えます。

音楽以外、全くなにもやっていない時期でした。一般教養科目も必修であったので、もうちょっと幅広く、視野を広げるような勉強もしたかったのですが、語学の問題もあったので、何十ページもテキストを読むような科目はとれませんでしたから代わりにスペイン語とドイツ語をとりました。とにかくそのころは楽器に集中したかったですね。

――弦楽器奏者だと、まずオケに入るのが目指すところになるのでしょうか。

オーケストラが好きな人はオケを目指していました。マスター(修士課程)を取る代わりにオケに就職するという人はいたと思います。

カルテットをやりたい人は、アメリカではレジデンス・カルテットという大学で奨学金をもらって弦楽四重奏に集中的に取り組むプログラムがあるので、そちらに進む人たちもいました。大学に就職したいという人は博士課程までとっていました。

スランプの中で出会ったルイス・クラレット先生のレッスン、「衝撃的でした」

――NYでマスターを取った後はどうされましたか?

あと2年くらいNYにいました。プロフェッショナルスタディーズというコースがあって、レッスンを受けたり、室内楽をやったり、オーケストラに参加したり、バロックアンサンブルや現代音楽アンサンブル、他にも好きな音楽理論の科目を取ることができました。ただ、そこでは資格は取れません。

――学び続けるにしても、経済面もなんとかしなければ、ということもあったと思います。

そうですね、なんで両親は帰ってこいと言わなかったのか…。たぶん、父自身がもっとずっと勉強をしていたかったと思っていたのかもしれません。

そのころスランプに陥っていて伸び悩んでいました。一度両親に「もう音楽はやめたい」といったことがあったのですが、じゃあどうするの?と言われて、うーんと、返せず。ほかに何にもやってこなかったので、道を変えるのも大変なわけです。

1日8時間くらい練習しているのに、弾けるようにならない。もうこれ以上うまくならないのかという焦り。全然世の中の役に立っていないのに、続けていていいのだろうか、という焦りがありました。

――そこから抜け出すのにどんなきっかけがあったのでしょうか。

NYで、著名なチェリストのルイス・クラレット(Lluís Claret)先生にレッスンしてもらう機会がありました。そのときのレッスンが衝撃的でした。1時間もたたないうちに、音がガラッと変わったのです。それでもうびっくりしてしまいました。まだ自分も変われるのかな、と。

次の年に、クラレット先生のレッスンを受けるために夏期講習を二つほど、連続して受けました。ベルギーのブルージュと、フランスのプラード・カザルスフェスティバルです。

――そのままルイス・クラレット先生に教わるために、スペインに行こうと。

実は、そのときもまだ迷っていました。もういい加減に就職しなければとも思っていたので、「やっぱり行きません」と言ってしまったのです。でも、講習会が終わったとき、「やっぱりまだ勉強したいです」と言ったら、「そんなの当たり前じゃないか。一生勉強し続けるんだよ。」とおっしゃって。それでスペインに行って勉強を続けることに決めました。

(後半に続きます)

いいなと思ったら応援しよう!