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【家を書いて、小説を建てる】#04 無限の壁
壁をCADで描き込む時、
あるいは3Dモデリングの空間上に立ち上げる時、
起点を指示してX,Y,Zとそれぞれの軸方向における長さ情報を入力するとすとんと立ち上がる。
値を小さくすれば小さな壁が、大きくすれば巨大な壁ができあがる。仮想の空間で立ち上がる壁は自在に大きさを変えられ、とんでもなくでかいものも容易に作り出してしまうことができる。
出来上がる巨大な壁は、面がつるんと平らである。何一つ窪みも目地もなく、どの点をとってみても同じ。全く一様な平面がどこまでも続いている。
しかし実際に巨大な壁を作ろうとすると、そういうわけにはいかない。
熱の膨張収縮による変形を呑み込むための目地がある間隔ごとに必要になってきたり、コンクリートを打設するためのピーコンの跡がいくつもついたり、材料の僅かな密度の差が色の濃さにじんわりと滲んできたり。
CADやモデリングではあんなに簡単にできたことなのに、一面を一様に造るということが、実際に私たちが生きている空間の上ではほとんど不可能に近いことだということがわかってしまう。
数m×数mの壁でさえ、クロスが歪んだり、いつの間にか亀裂が入ったり、僅かな色合いの差が出てしまったり。避けられない変化が浮かんでくる。
しかし、逆もまたしかり。
何も考えずとも出てくる壁の歪みや亀裂、色のくすみや目地を、CADやモデリングで表そうとするとどうしても嘘くさくなってしまう。何かを貼り付けたような単調な印象を拭えずに、一様な一面であることの印象からどうしても脱することができないのだ。
実際の空間に長くそこに立っている壁の一面。それを再現しようとすると、無数の微細な傷やへこみ、しみ、雨垂れ、黄ばみ。そして全てがそれぞれに違った色や深さや形をしており、同じものは無い。
そんなものを再現することの無謀さは考える前にすぐに察しがついてしまう。
つまり、CADやモデリングが得意としているものを現実は不得意とし、現実では自然とそうなってしまうものをCADやモデリングで造ろうとすると途方もない労力を要する。
二つはまるで得て不得手を真反対に引っ張ったような関係にある。
小説は、その間を常にやっているような感覚がある。
物語をつくるということは、モデリングのようにそこに無い壁を立ち上げるようなところがあり、無限にでかい一面とすることも、ちっぽけな手のひらサイズのものにすることも、作者しだいとなる。
壁の座標を取り、その一辺の長さをどれほどのものにするか、分厚さをどのくらいにするか、作者である私はそれをひたすらにやっているようなところがある。
しかし同時に、その壁の質感を嘘のないように、本当の質感を見落とさないように、壁の細部に目を凝らしながらなんとかして造ろうとするようなところもある。
自らが勝手に据えた世界や人物であるはずなのに、その材質や質量や色合いは、本物のそれを忠実に描こうとするのだ。
そうして私の執筆という行為は、モデリングのような自由さと、細部のスケッチのようなきめ細やかさに、二つに同時に両腕を引っ張られ続けるようなもので、時々そのどうにもならなさに大声を出したくなる時もある。
そのどうにもならなさを越えるには、今のところ忍耐とお風呂場で湯船に浸かりながら不意に立ち上がってくるアイデアに任せるしかない。
しかし、そう思うと建築というのは、特に設計というのは、小説のように自由な一面も大いにあるのだと思い知らされる。
そんなふうに今更に知るようになるのは、この設計というものが、数えきれないほどの制約と向き合うことであるからかもしれない。
設計をする時、まず敷地がある。計画地の大きさがあり、そこから出てはならない、他人の土地を勝手に侵食してはならないというのが前提となり、わかりやすい大きさという制約から始まりを迎える。
それだけでなく建蔽率や容積率、北側斜線などの法的なボリュームへの制約を山ほど受けて、さらには隣地への影の影響や音の影響など倫理的な制約を通して、もうほとんどボリュームなんてものは制約で整ってしまうと言っても過言ではない。
スタートから制約だらけの状況で設計というのが始まる。いくつもの制約が条件として冒頭に敷き詰められ、その中で一歩目から制約を踏んでしまわぬように、その道の自由を探してゆくようなものなのだろう。
だから、モデリングで果てしなく長い壁を作れるとしても、実際にそうしようと思うこと自体が設計士にとっては、もうとっくととうに忘れ去られた選択肢になっている。
小説における制約の状態は、こうした設計におけるものとは逆のイメージを受ける。
小説は初めには何の制約もない。全くの自由から始まる。敷いて言えば、文字を書くという制約があるだけだ。
しかし、文字を書き始めると、積み重なってゆく文字の量に比例して制約が増えてゆくように思える。
登場人物が出現し、その瞬間に人物に関する制約が発生し、彼が目にした物の描写によって空間の制約が始まる。彼が起こす行動を書き綴ってゆく度にその履歴が以降の制約になり、その条件は文字の数だけ増えてゆく。
そんなふうに、書けば書くほど制約は増えてゆき、書くべきことというのが自ずと決まってくるようなところがあるのではないか。
商業性や実体の有無などが大きく絡むことは承知しながら、しかし設計とはまるで鏡写しのような制約の状況が、執筆という工程の中にはあるようで、これはこれでなんだか面白い。
しかし、いずれも、小説も建築も、条件にがんじがらめになったような作品を人はあまり面白いとは言わないような気がする。
その制約を内側から思いっきり壊すような、もしくはするりと抜け出てしまうような、もしくはその中で穴を掘って地中深くまで潜ってしまうような。
そんな自由な作品にこそ、私も惹かれるところがある。
そしてその自由を獲得するのには、どうも制約の圧力が非常に大きく影響しているような気がしてならない。
圧力の方向、強度、頻度、角度、そうした力に対して、反発するのか変形するのか、もしくはまるで力のかかっていない一点に気付くのか。
その自由の獲得の仕方は、ひょっとすると建築も小説も似通ったところがあるのかもしれない。
なんだか、めちゃめちゃカッコをつけてしまった。
この恥もまた制約として、この後の文章をじわじわと圧してゆく。
#03 無限の壁