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創造都市
創造都市(クリエイティブ・シティ)は、なぜ、日本に根づかなかったか。
それは、日本には、都市というものが存在しないからである。
そう言えば、皆さん、そんなことはないと反論されるだろう。
東京・名古屋・大阪など、日本には、大都市があるではないかと。
少し歴史を紐解く必要がある。
かつてヨーロッパにおける都市とは、城壁に囲まれていた。
その内部を都市と呼んだのだ。
パリに行くと、Porte de 〇〇というメトロの駅が終点にある。
あれは、もともと、城壁の門の名前である。
鍵がかかっていた。
ロダン《カレー市民》が持っている城門の鍵である。
そして、都市の内側にいる人々をブルジョワ・市民と呼んだ。
芸術家は、ボヘミアンで、城壁の外を彷徨っていたのだ。
日本の町と言えば、もちろん、城壁などなく、関所はあったものの、往来自由であった。それゆえ、ヨーロッパのように、城壁の中で、市民が自治を行う都市とは、根本的に歴史的背景が異なる。
創造都市は、チャールズ・ランドリー『創造的都市 クリエイティブ・シティ』による概念で、炭鉱で栄えたブーミィング・タウンが、産業が廃れ、ゴースト・タウンとなり、その後、芸術・文化でクリエイティブ・シティとなるというプロセスである。
しかし、日本には、都市が存在しなかったため、炭鉱が廃れた後も、芸術・文化で創造性を発揮することはなかった。
歴史的背景の異なるヨーロッパの概念を日本に移植しても、根なし草で、すぐに枯れて死しまう。日本の文化政策の大きな過ちは、そこにあるのだ。
日本には、その風土にあった都市づくりを進める必要がある。
織田信長の「楽市・楽座」や江戸時代の「入り鉄砲に出女」など、最低限の治安だけを守り、基本的には、仕切りを取り払った制度が馴染みやすい。
家屋を比較しても、ヨーロッパの部屋の壁は固定式だが、日本の障子や襖は、可動式である。
このような文化的背景を踏まえたうえで、日本型の創造都市を考え直すならば、それは、原始共産制に近い町となろう。産業基盤を150人単位の村が担い、直接民主制で政治を行う。武者小路実篤の提唱した「新しき村」なども参考にしつつ、小さな部落による緩やかな集合体を形成すればよい。
国防や外交などは、国の専管事項とし、自治は村が行う。
こうした役割分担ができれば、地方は再び、創生するだろう。
大都市中心の時代に終わりを告げ、小さな村が主役の国づくりをしようではないか。
これが私の考える日本型の創造都市である。
詩人 たいいりょう
※写真は、写真家・四宮佑次先生の作品です。