二つの根源的テーゼ *方法論

【哲学的思想問題考20231024/2--愛と平和の位相をテーゼとして】

『二つの根源的なテーゼ』

人の世に「愛と平和」を成就するための、根本的で実践的な<方法>論として、二つのテーゼがある。

一つは、「異論反論との対話」であり、また一つは「自己内対話」である。

さて、それではこの二つのテーゼは、どのような関係にあるか? あるべきか?

・「異論反論との対話」を優先した場合、それは<議論討論>という形を取ることになる。

まず<認識と主張>をもつ私が先にあって、<直接>、「他者」と対峙するわけだ。

そこで、当然「異論反論」に直面することになるであろうし、そこでは穏やかならざる意識感情も生じるが、そこを忍耐し、そこから<自我>に固執せず、自己の<認識と主張>の正当性を反省する作業に入る。すなわち「自己内対話」である。

これが一つの展開だ。

・「自己内対話」を優先した場合、それは<内省的思索>という形を取ることになる。

<自我=認識と主張>を持ちつつも、いきなり「他者」に対峙するのではなく、己自身の脳と魂に働きかけて、言わば、己自身のなかで「問答」を始めるわけだ。つまり<間接的>に、「他者」と対峙するわけだ。

そうして、でき得る限り、「他者」と<間接的>に対峙してからのちに、<直接>、「他者」と対峙するわけだ。

このまず「自己内対話」を始めて<内省的思索>を展開すると、そこにおいては、屡々、私は、己自身の中に、「他者」を見出すことになるだろう。

従って、<自我>が、「異論反論」をもつ「他者」を、それだけで直ちに「敵対」者と断じ、嫌悪と憎悪の感情に支配され、排除と抹殺の衝動をもつことから、脳と魂を解放することになるだろう。

これがもう一つの展開だ。

もちろん、後者のテーゼの場合であっても、実際には、私と同様の脳と魂の営みを実践しない「他者」とは、「コンセンサス」の形成を成就することは殆ど不可能だろう。

が、そうした言わば「確信犯」の「他者」との間に「コンセンサス」の形成は望み得ないとしても、「異論反論」をもつ一定のより広い他者たちとの間に、「コンセンサス」を形成することは期待が持てるだろう。

「異論反論との対話」と「自己内対話」という「愛と平和」を成就するための二つの方法論のテーゼの関係と特徴はこのように分析し得るだろう。

しからば、現代状況においては、「愛と平和」を希求する人は、いずれの展開を果たすべきかーーー。

いずれも、<自我肥大>と<唯我独尊>の誤謬を免れ得る方法ではあるが、「自我」を過剰に<抑圧>せずに、「愛と平和」という目的テーゼを成就するために、現実的に有効な方法はいずれであろうかーーー。

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