戦国武将・信長軍の鉄砲隊指揮官【滝川一益】
柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀とともに織田四天王に数えられる。
大永五年(1525)に近江で誕生。
永禄十年(1567)に美濃を平定した信長は伊勢への侵攻を開始する。一益はその先鋒を任命され、伊勢の攻略に活躍した。
鉄砲の扱いに長けていたため新兵器への関心が強い信長のもとで重用されていく。
元亀元年(1570)に石山本願寺と信長が対立すると本願寺顕如は伊勢長島で一向一揆を扇動した。
信長包囲網が敷かれ一益は織田本隊が各地を転戦する間、伊勢の守備を任された。
天正二年(1574)に、信長は長島一向一揆の殲滅に大軍を投入。
一益は海賊大名の異名を持つ九鬼義隆と組んで水軍で長島の輸送路を遮断。
長島一向衆の殲滅に成功すると、信長から伊勢の大名を任命された。
伊勢での活躍とともに一益が殊勲を挙げたのが、天正十年(1582)に織田信忠を総大将とした武田攻め。
この甲州遠征軍で先鋒を任された一益は本隊の到着を待たず国力の衰退が進む勝頼の武田軍を攻略していく。
かつての強国の甲斐武田軍を僅か二ヶ月で滅亡させる快進撃をみせて、一益は関東方面の軍団長へと昇格した。
守って良し、攻めても優秀な戦績の一益だが、織田総力戦での本隊と行動することが少なかったので焦点をあてられにくい。
大軍での出陣中に別働隊として働き、敵対勢力から急所を崩させなかった守備は高評価。
天正十年(1582)6月2日、甲州征伐のすぐ後に本能寺で信長が討たれた。
秀吉が光秀を討ち重臣の中で影響力を高めるなか、関東方面の軍団長の一益は、小田原の北条から襲撃を受け迎撃敵わず敗走。伊勢に帰還した。
織田四天王に数えられる重臣でありながら、後継者を決める清洲会議に参加できず、一益の影響力は衰退していった。
秀吉の快進撃を止めるべく、勝家に味方したが、勝家が敗北すると所領をすべて没収されて越前にて蟄居となった。
小牧・長久手の戦いでは秀吉の元で再起して参戦している。徳川軍の猛攻に落城を許している。
光秀、勝家、長秀、と信長亡き後に織田四天王も続々と亡くなって信長の死後四年で最後の一人となった一益も、天正十四年(1586)に六十一歳で死去した。
次男の滝川一時は大名に取り立てられ、滝川家は存続している。