弓を忘るる程の弓の名人(2023年の自由320ラスト)
今日は紀昌の話
「なんかいい事ありました?」
道の先が見えたって事だね。今日読んだ記事の無知の知のマスタークラスは「知ってる事を知らない」という項目を友人と話して、疑問に思ったんでね。漢文の弓の話をしてくれて、紀昌の話を読んだわけ
「ほう」
不射の射は刃牙道の宮本武蔵編で学んでたからよかったんだけど
「漫画ですか」
うん。太刀を持たずして斬る。これ不射の射だからね。簡単に理解出来た。その先の
弓を忘れる程の弓の名人が分からなかった。これただの寓話とするには、他の名人が紀昌を天下一の弓の名人と認めてるんだよね
「ですか」
でも、紀昌自体は「至射は射る事なし」と弓技を見せた事がないんだよ
「あれ、見せてないのに名人に天下一と認められるんです?」
そそ、そこが疑問だったんだよ。これ解くのに30~40分かかった。僕にしては長く考えた方だね。正しいかどうかはともかく、一定の結論は出たよ
「といいますと?」
まず、こないだ説明した守破離。この上の領域が関係してくる。行住坐臥に弓の理合いを飲み込ませる状態になる。日常生活の全てが弓の理合いの元で動くようになる。そうなると、斬るに太刀いらず、射るに弓いらずになる。ここが不射の射さな
「なるほど。得物を持たずとも理合いで悟らせるのですね」
そそ、それを更に行住坐臥行っていると、弓の事すら忘れて自然と体が動く事となる。そうなると、全てが弓の理合いによって動き、それが弓の理合いと意識する事もなくなる。そして忘れるにまで至るって事
「なるほど」
名人が所作を見落とす事はないし、理合いの先が見えてるからね。撃たずとも悟らせる。の領域から更に先に進んだ話だったんだ。僕の解釈だけど
「真相は分からないですよね」
ん、でも僕なりに道の先が見えたよ。道を目指せば四六時中、道の事ばかり考える。そしてその理合いを完全に感得するために日常生活自体に取り込んでいく。(行住坐臥だね)そして、その理合いを意識することなく体現する。道と言ってたけど意外と近くにあった
理合いを行住坐臥体現し、無意識で出来るようにする。それが出来るようになって、更に破壊と再生を行う。これが道の果てだ。日常が理合いの極になり、そこから更に新たな物を積み上げる。日常に馴らすさな。やっとハヌマーンに追いついた
「ふふ。多分天界が用意してくれてたんですよ?」
道がテーマだったからね。ま、ここまで分かれば、日常をその状態にするさな
「うん。頑張ってください」
了解