ホクホク。
最近、自分のことを肯定してくれる人に出会えて、ホクホクしている。そういう場に居れることにも。
しかし、私の今のこのホクホクした幸せは、"誰かに肯定されること"ありきの幸せなんだよなぁとなり、なんと弱々しい幸せにすがっているんだ(泣)、これではダメだ!となってしまった。
私は、幸せになる手段を得ることは不自由の始まりだと思ってしまうフシがある。
じゃあそう思ってしまうのは何故かな?
と考えたときに、出てきたのは、
〇〇でないと幸せじゃない!という言葉を何度も言われてきて、そして、その言葉は私の感情を否定するものだったので、なんとなく、それを肯定したら負けな気がするということ。
〇〇に依存した幸せは脆いというような経験。それで、脆い幸せはもう嫌だよ〜と泣いてる自分がいる。
ふむふむ。
で、ちょっとこの2点について考えてみた。
私は、受け入れ難い思考と戦っていたんだな。
それと、手段を得ることと自分の弱さの問題を絡めているな?
という感じで。
で、上記二つの私の理解に対して、
その私が戦ってる思考っていうのは物事の一つの見方でしかないぜということ、
あと
人間ってのは大体脆いので、どうあがいても人間の私が作る幸せは脆いだろ!と基本的ツッコミ(ここ重要。個人的なツッコミは傷つくので。)をいれるなどして自分を慰めつつ、思考の斬り口を作ってみた。
斬り口を見つめながら、ちょっと考えて、物事の考え方の他の例を自分に提示してみたりもした。
例えば、色んな手段から選択できるってのも一つの自由なんじゃないか?とか。
他の見方に気がつけた途端、縛られていた思考から解放される感じがした。
頭が柔らかくなったかんじがした。目からうろこ落ちてたと思う。
それで私は、私が嫌ってきた一つの思考に対して戦わなくて済むようになった。そういうのもあるんか〜的な感じで肯定も否定もしない。あえて相手にしないスタイルは、まさに無手勝流。
そういうわけで、自分の生活を豊かにするものとして、自分を肯定してくれる人に関わることは一つの手段でしかないと思えるようになった。この手段に私の幸せは依存してない、というか、依存できるほど私の幸せは強くないか!と開き直れた。
それと、私は自分を肯定できる人達と関わることを敢えて選択していけるな!とも思えるようになった。
(もうちょっとスラムに居てもいいかなと思えるようになった。自分の中にあった、"居ることの辛さ"を受け入れられるようになった!)
ひとつ選択肢が増えて少し自由になれたというかんじです。(居れないままの私の物語も、忘れないでとっておきたいです。使わないけど。だけど、今の私の影のストーリーだという風に考えると、とても面白いです。これは生きる上での醍醐味です!)
もっと色んな選択肢探していきたいな。
なんでもええねんと心から思えたらいいな。
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