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霧のなかで、おもいだした「海」の記憶。

今、霧の中にいる。

ここ数日は、霧が濃くなった。
朝、長男を送迎するとき、外へ出るとあたりは真っ白だ。
冷たい空気は、白い世界で覆われている。
「はぁ」と息を吐くと、白いふわふわしたモヤが空気に溶けて消えていく。
まるで、霧とひとつになったみたいだ。

息子たちは、「まっしろ!」と言いながら、車に乗り込む。
続いてわたしが運転席に乗り込むと、「ライトつける!?」と長男が聞く。
うーん、とりあえず様子見で。
曖昧に答えて、車を発進させる。

いつもより、慎重に。
霧の世界への旅がはじまる。


対向車線の車が、ライトをつけている。
霧の中からこっちへ向かってくるふたつの丸い光は、まるで目だ。

真ん丸のライトは、なんだかかわいい。
鋭くシャープな形のライトは、「速そう!」と長男が喜ぶ。
ときどき、妙にブサイクに見えるライトの車がいて、すれ違った途端、みんなで笑う。
「なんか変な顔だったねえ!」と長男は手をたたいき、つられて次男もケケケと笑った。


子どもの頃、光る二つのライトは、まるで「猫バス」のようだとおもっていた。
「となりのトトロ」の、あの猫バス。
にゃごにゃごとしゃがれた声で鳴きながら、めいを探してくれたあの光る目が、小さいわたしは少しこわかったっけ。


幼少期を過ごした町も、こことおなじで霧が濃かった。
山と山に囲まれた盆地で、霧がたまってそこは「霧の海」に見えるほどだ。


そういえば、小学6年生のとき、この「霧の海」を見に行った。

学級崩壊6年A組。
担任のI先生と、わたしと、クラスメイト。
早朝3時、山のふもとに集合した。




まだ暗い朝。
真っ白な霧に囲まれた山のふもとで降ろしてもらったわたしは、大きなリュックを背負い、分厚いジャンパーに身を包んでいた。
「おはよー」。
そこには幼馴染をはじめ、おとなしい女の子や、いつも親切な男の子など、いじめや学級崩壊とは無縁なクラスメイトが8名集結。
和やかに話をしながら、担任のI先生の到着を待った。

I先生は、わたしの人生を変えた人である。
I先生に出会って、わたしは教師になった。

体育会系の若い男の先生で、担任に決まった日には体育館にブーイングが鳴りひびくほど嫌われていた先生だったが、すぐにそれは間違いだと分かった。

こんなに子どものために全力を尽くしてくれる人はいない。
休日返上で、持てるすべてを発揮して、I先生はわたしたちを楽しませてくれた。
この山登りも、そのひとつだった。



「おまたせ!」と言って、颯爽と現れたI先生。
大きなリュックに、なぜか鍋を持っていた。
「何その鍋?」と聞くと、嬉しそうに「お楽しみ」と言った。

先生がそう言うなら、いいことが待っているに違いない。
わたしたちは意気込んで、山を登った。
日の出までに登らなければならない。
視界の悪い山だったけど、もう何度ものぼったことのある、地元じゃ有名な小さい山だった。


山頂に着いて、日の出を待つ。
その間に、先生はササッと準備をして、わたしたちに「おでん」を振舞ってくれた。
ほのかに明るくなってきていた山の展望台で、カセットコンロに火をつけ、鍋に具をわんさかと入れて、煮る。
みんなで鍋を囲みながら、他愛のない話をする。
楽しかった。

というか、あれは何という感情だろう。
体験したことのないワクワクと、特別な思い出になるに違いないという確信。
あつあつのおでんをかじりながら、みんなで「ああでもない、こうでもない」と言い合う時間は、実はこのクラスが学級崩壊中であることを忘れさせてくれた。
いい先生だ、いいクラスメイトだ、いい友達がいるんだと思えた。

そうやっているうちに、空が明るくなってきた。
さあ、「霧の海」だ。




しかし、結局「霧の海」は見えなかった。
山が低すぎたらしい。

わたしたちは、太陽が昇り始めた時間になっても、未だに霧の中にいた。
つまり、わたしたちは「霧の海」の中を泳いでいる。
海中を漂いながら、おでんを食べた。
「見えんかあ!」とI先生が言って、みんなで笑った。
霧の向こうから、明るいオレンジの光が漏れてきていて、それが日の出なんだと分かった。

初めて見た、日の出だった。




「昔さ、霧の海を見に行ったんだよね」。

霧の中を車で進みながら、長男に告げた。


「霧の海ってなに?」と、不思議がる長男に、6年生で一番の思い出を事細かに説明した。
長男は、「ふうん?」と分かっていなさそうな反応だったが、それでよかった。

どうして、忘れていたんだろう。
霧の中を進みながら、こんな何でもない日に思い出すなんて。

園に長男を降ろし、ふたたび次男といっしょに来た道を戻る。
うっすらと霧が晴れてきている。
遠くに、明るくなった山のてっぺんが見えた。


あのくらいまで登ったら、見えたのだろうか。
「霧の海」を想像する。

「霧の海に浮かぶ日の出とともに、写真を撮ろう!」と、I先生は言っていたっけ。
カメラの好きな先生だった。
よく写真を撮っては、全員分現像して、プレゼントしてくれた。


今でも、きっと家にあるはずだ。
真っ白な霧の「中」で、おでんのともにピースする、8人のクラスメイトとI先生の集合写真が。

「霧」のおもいで。
真っ白になった世界を進む車の中で。
今日、呼び起こされて。


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