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勉強をする本当の意味
小学生の頃から今まで、色んな大人に「勉強しなさい」と言われることがたくさんあった。
それが何の勉強なのか分からなかったから、てっきり五教科の勉強なのかと思い込んで、ひたすら座学に取り組んでいた。
そんなことをしているうちに「勉強しなさい」としか言わない大人のことを嫌いになっていった。
反抗的な気持ちもあったが、それに加えてなぜそれが必要なのか教えてくれなかったからだ。
でも、大人になって分かったことがある。
基礎的な知識がないと、論理的なことが分かりづらいのだ。
論理的思考ができないと、感情は感情で対抗するしかなくなる。
感情は感情で対抗できるはずがないのに。
生きてきて色んな悩みを持ったことがあったが、その悩みを唯一解決できたものがあった。
それは、「事実」だった。
例えば、私に対していつも嫌味を言ってくるAさんがいるとする。
それに対して私は「いつも嫌味を言ってきてウザイ」という感情を持つようになる。
一方、それを客観的な事実としてみると、
Aさんは一つ一つの作業を丁寧にこなしたいタイプである。だから、私の雑な作業の仕方が理解できなかった。
という事実があるかもしれない。
これは状況把握能力が出来るかどうかにかかっている。
感情的な悩みを解決する方法に、他の人の意見も取り入れるやり方がある。
それは本を読むことでも同じだ。
でも、そこで読解力や理解力がなければ、書き手が言っていることが分からないのだ。
それは何を意味するかというと、「一生自分が体験したことでしか、問題を対処出来ない」ということなのだ。
こんなことを考えていると、「勉強しろ」と言っていたあの人のことが信用できた。
当人はこんな事まで考えてなかったかもしれないが、中高の時の私にとって無意味だと思っていたただの座学は、自分を守る「武器」に変わっていったのだ。
あの時、受験にしか使えないと思っていた練習問題は、もしかすると人生の予行練習だったのかもしれない。