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雲をつかむような世界に私たちは生きている

1ヶ月後を考えて行動するのと、10年後を考えて行動するのとでは取り組み方法が違います。また、自分の生活中心に考えるのと、地球全体を視野に入れて考えるのとでも取り組み方が違ってきます。

個体としての生存競争を意識すると、自分が生き残るために競争に勝っていかなければならないという戦いの生き方となります。生活のためにお金を稼ぐというのもそのあらわれです。

生存競争になってしまうとしんどいです。勝ち抜いていかないと生き残れないという弱肉強食の世界ですから、勝ち組に入らない限りはたいへんです。

肉体の自分を自分と認識すると「生活のためには働かなくては!」という意識から解き放たれません。なぜなら個体の生存と満足が重視されるからです。

「自分」という枠が広がり、自分の家族、家、友人、地域、国、星、銀河、宇宙と広がっていくと、すべてが自分となります。

何を自分と定義するのか?でそれは違ってきます。

肉体を自他の境界とするのか?
肉体を包むエネルギー(気)を境界とするのか?
あなたが取り込んだ食べ物はあなたなのか、別物なのか?

あなたの排泄物はあなたのものか?
トイレで流して水と混ざれば、あなたとは違うものなのか?
排泄物の中にあったあなたの情報はどうなるのか?

あなたが得た考えはあなたのものなのか?
それを得るまでのプロセスと背景との関わりはどうなのか?
どこまでをあなたの考えとして、どこからを他者のものとするのか?

あなたは何をもって、自分を「自分である」と認識していますか?

哲学者のデカルトは「我思う、故に我あり」と言いました。
例えば、私たちの感覚は確実なようで、見間違い、聞き違い、勘違いなどがよく発生します。人によって受け取り方は違います。数学的な真理も今は正しいとされていても、いつか覆されるかもしれません。

そうやって物事を見ていくと、あらゆることはその確実性を疑うことができます。最後にはそれを考えている自分の意識の存在が残ります。「自分は存在しているのか?」と疑ったとしても、その疑っている意識の存在は否定できません。なので「我思う、故に我あり」となります。

すべての存在を疑うことはできるけれども、それを疑う自分の意識があることは否定しようがありません。もちろんその意識も絶対ではなく、それすらも自分由来でない外部情報でできあがっています。

そう思うと「なんで自分はこうなんだろう?」など自分のことで悩むこと自体、無意味になってきます。その自分は自分がそう思うから存在します。その自分が実在しているのではなく、それを悩んでいる自分の意識だけがその時生じています。

雲をつかむような話ですが、文字通り雲をつかむようなことです。「自分はこうだ」「人生はこうだ」「世界はこうだ」という思いは思った瞬間、あたかもそれが実在するかのようにあなたの前に現れますが、その思いが消えると目の前から消えてしまいます。

継続的に思い続けたり、時折思い出して自分の意識に上がった時に以前の記憶とつなげてずっとそうだったかのように感じます。が、実際はそれを思った瞬間にあなたの中に生じてます。

不思議な世界に私たちは生きていますね。

自分の境界の話に戻ると、自分の境界をどこに設定するのか? 設定する必要はないですが、多くの人は無意識に自分の肉体、あるいはパーソナルスペースを自分の境界とします。肉体は皮膚に覆われていますから皮膚を境界と認識する人が多いです。

それは個体としての自分から見た認識の仕方です。
つまり「私は自我と肉体を持った一人の人間である」という認識ですね。
そしてその考えがベースになってできあがっている世界が今の社会です。
”優秀な個”が望まれたことにより競争社会と差別が生まれました。

しかしながら「我思う、故に我あり」の「我」とは一体なんなのだ?と考えていくと、個体の存在は薄らいでいき、雲のように実在するのかしないのかわからなくなっていきます。

(pmb150305α)

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