山を歩いて思うこと(その2)ー静寂とオノマトペ
今日も一人山歩きの話をします。
前回(その1)は一人山歩きの緊張感の話を中心に書きました。
今日は静けさについて。
一人で山を歩くということはそばに誰もいないということなので、通常黙ってます。ラジオをかけたり、歌を歌ったり、独り言を言ったりもあるでしょうが、それがない時は静かです。
登山客のいない無名の山では山道を歩いていてもめったなことでは人に会いません。すると静寂が聞こえてきます。静寂は静かなので聞こえないんですけど、その静寂さに耳を澄ますことになります。なぜならふと、とても静かなことに気づくからです。そして普段は人工の音を聞いていることが多いことに気づきます。車の音、人の話し声、テレビなど。
人気のない山の中にいるとしんとしています。ときおり鳥や鹿の鳴き声がします。風が吹くと木々が揺れて音がします。
谷川の近くを歩くと水の音がとても心地いいです。なんでこんなに気持ちいい音を水(谷川)は出すんだろうと思いました。子供が疑問に思いそうですが、なんで水が音を出すんだ?どうやってんの?と気になりました。
岩や他の障害物にあたって音が出ているようですが、不思議に思いました。水の音にもすごく種類があり、いろんな音がしています。とても心地よい音もあれば、ザーッと流れゆく激しい音もあります。
鹿が時々鳴くのですが、いつもシカの鳴き声を表現するのに迷います。今回は短いヒュッという声が何度かしてました。自分の家にいても時々シカの鳴き声が聞こえます。ひぐらしの物悲しさと同じような音色ですが、ケーン?ヒューン?なんと言っていいものか?いつも表現に困ります。
鹿は日本人には馴染みのある動物で日本中に生息しているのに、なぜか鳴き声の表現がありません。私が知らないだけかもしれませんが。犬はワンワン、猫はニャー、狐はケンケン、スズメはチュンチュン、熊はガオー? 狸はお腹をポンポコポン(笑)。
けっこう馴染みのあるシカなのに鳴き声の表現がないのはなんでなんだろう?と思います。
山の中は静寂と言っても時々何かが聞こえます。それらの音がない時は自分の歩く音だけ聞こえます。
静寂を「しんとする」と表現しますが、この言葉を編み出した人はすごいなと思います。あるいは『「しんとする」とはこういう状態だ』というのを子供の頃から何度となく体験して、「しんとする」という言葉と静寂な状態が自分の中で合わさっているので絶妙な表現だと思うのかもしれません。
雪が降り積もることを「雪がしんしんと降る」といいます。夜に雪が降っている情景を思い浮かべるとわかりやすいですが、この「しんしん」は音がしているわけではなく、静かに降り積もる雪の様子を表しています。音はしてないですが、しんしんとした無音が聞こえてきそうな感じがします。
山の中に一人でいると「しんとした」静けさが味わえます。しんとした音が聞こえるって感じですね。これもとても貴重だなと思います。これはそのまま自分の無意識に響いてくるように思います。
日本人とポリネシア人は、虫の音や自然音を言語脳の左脳で聞くと言います。その他の国の人たちは言語脳では言語音、その他は右脳でとらえ、その区別がはっきりしているそうです。雑音として必要のない音と処理されると聞こえなくなります。
日本語には「オノマトペ」がたくさんあります。オノマトペとは擬音語、擬態語のことです。先ほど記述の表現や、ザーザー、ドスン、ガタガタ、ドキドキ、まったり、ソワソワといった表現です。擬音語は動物の鳴き声や物音など実際の音の表現、擬態語はワクワクのように状態や心情を表現した言葉です。
言語脳が言語音のみでなく、自然音も言語脳で聞くというのは、自然の音が豊富な日本においては、自然が話をしている/話しかけてくるという雰囲気があったのでしょう。
実際、自然の木々や苔むした石などが息づいていて、今にも話しかけてきそうな森もあります。アニメで、木に顔と手があって動き出すシーンなどありますが、今にもそれが起こりそうな気配がある森です。めったに出会わないですが、私は2回ほどそういうところに遭遇して驚いたことあります。その森ではあらゆるものが意識を持っていて、今にも動き出しそうでした。
昔の日本にはそういう森はたくさんあったでしょうから、言語脳で自然音を聞いたり、自然との霊的交流があるのは普通のことだったのかもしれません。
静けさの話を書くつもりが、静けさとその表現の話になってしまいましたね。
長くなったので、残りの気づきは次回に。