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山を歩いて思うこと(その3)ー人がいない空間

山を歩いて思うこと(その1)ー緊張感と生存本能
山を歩いて思うこと(その2)ー静寂とオノマトペ

一人山歩きで良いことのもう一つは、人がいないことです。
人がいないということは、その辺りの空間においてひとりぼっちです。
人が自分しかいません。これを怖いと感じる人と、快感と感じる人がいます。
周囲に人がいないので、何かあった時には自己責任です。だから(その1)で書いたように緊張感が生じます。自分のことは自分で面倒を見なければならないので、生存本能や野生の勘が働きます。

山は人がいないので大気が澄んでいます。人の想念が大気に混ざっていません。これも森の中が気持ちいい一つの理由でしょう。
コロナ禍では、人が生み出す活動が減少したおかげで、大気や水がきれいになったり騒音が減りました。人間がいかに害を生み出しているかを再認識する機会となりました。

人のいない山を歩くと、人がいない心地良さを感じます。それもまた静けさの一つといっていいでしょう。1000m以上になると気がガラリと変わります。それぐらいの高さになると下界の想念は到達しにくいのでしょうね。
でもそんな高さにまで登らなくても、人気のない山に入れば人の気配はありません。

街の中の孤独感と、山の中の孤独感は全く違います。
街の中の孤独感は、人がいるからこそ感じる孤独感です。
自分はたった一人っきりで、だれとも関わりがないという寂しさです。

山の中の孤独感は、自然と自分一人が対峙する孤独感です。
何が起きても自分で対応するしかないという思いと、まわりの圧倒的自然感。
人も自然物ではありますが、自我が強い生き物なので、見える環境と自分を切り離して考えます。

一人の人間と、木々や土、岩、動物などの自然。言語対応は不可能ですし、人間的常識も通用しません。あるがままの自然と自分です。

人間社会では人間が優位のように感じますが、山では自然の方がパワーがあります。自然が主役です。人はその中のちっぽけな点でしかありません。コントロール不可能な領域に、脇役的に一人ぽつねんといます。

コントロール不可能と言っても大抵の場合何も起きません。雨が降ったり、転んだり、道に迷ったりは起こり得ますが、落石に当たったり、クマに襲われたり、噴火や雪崩に出遭ったりということはなかなかありません。

コントロール不可能な自然界ですが、前準備としてはコントロール可能なこともあります。しかしながら山の中に一人いることは無防備なわけで、何かあっても自分以外の助けはありません。急変化するかもしれない自然に対応しながらの行動になります。そういう意味では孤独です。

暗くなったり遭難していれば孤独感も感じるかもしれません。明るい間は森の中に一人いても私は孤独感は感じません。逆に人がいないことが清々しく気持ちいいです。
人の生み出す想念の多くは大気を汚す公害なんだろうなと思います。それほど無駄な思考をしているということなのでしょう。
だからこそ時々、山に入ってリフレッシュするといいですね。

自然というと癒しイメージを持つ人は多いと思いますが、優しいだけの自然ではありません。生命危機的な怖さもあれば、畏怖もあります。それは人智を超えた神的なエネルギーに対する畏れもあれば、未知の得体の知れなさを感じとっての恐れもあります。それらを感じる時は怖いです。自分を遥かに超えた圧倒的なパワーを感じますから。

とはいえ、自然の中を歩くことはやはり癒される部分が多いです。人間社会にいるといろんなことがありますし、とにかく人が多いですから、たくさんの人の想念やエネルギーに触れることになります。私たちは肉体だけでなく、エネルギー体(気の体)が人体の周りにあります。それは人の多いところでは重なり合います。
エンパス体質の人は意識せずともいろんなものをもらい受けてしまいがちです。
山を歩くとそれらが浄化されますから、身も体も軽くなります。

気の悪い山を歩くと、良くないものをもらってしまう可能性がありますが、気の良い山であれば、歩くだけで浄化されていきます。山を歩くことは全身運動になりますので健康にも良いです。人の想念エネルギーがなく気が澄んでいるので、精神的にも軽くなれますし、一人で歩くということで胆力もついてきます。

(その4)につづく。


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