他人が描く私の色
物体には色がない。
物体に光が当たって吸収できなかった波長の光だけが反射してそれが目に入り、色として認識しているだけだ。
それを聞いたとき、はっとした。
物体そのものに色がついていて、自分たちはそれを受動的に受け取っていると思っていたからだ。
物体そのものが果たしてどんなものなのか、実体を知ることは絶対にできないことを悟った時、この世の中のものすべてが虚像にすら思えてしまった。
こういう話題は考えすぎない方がいい。
宇宙のことや死後のことなども考え始めたときはファンタジーで少しワクワクするけれど、深いところまで想像を膨らませすぎると、生きている意味が分からなくなってしまうときがあるからだ。
だけど、物体そのものには色がないという事実を、人とのかかわりの中に落とし込んでみたらどうだろう。
人、個人には色がない。
実体がどのようになっているかは分からない。
社会という光に当たって、他人の目に受容されてやっと色(性質)を持つ。
この考えはあながち間違っていないのではないかと私は思う。
例えば、とても頭のいい学歴の高い大学生は大学生として社会にいるうちは、「頭がいい」ともてはやされるけど、企業などの社会に出ると、「仕事ができない」と思われてしまうことがあると聞いたことがある。
この大学生自身は何も変わっていないのに生きている世界が変わることによって、当たる光が変わる、あるいは光が当たる場所が変わり、他人の目には違うように映ってしまっているのだ。
また、友人と会話していて、「私は本当はこういう人間なのにみんなは全然わかってくれない、誤解している。」と落胆する声を聞くことがある。
しかし、本当の自分なんてどんなものかはわからなくて、他人というフィルターを通してしか自分は認識されない。
目の網膜よりも人の感性には個人差があるから(もしかしたら網膜にも個人差があってみんなの感じている色と自分が感じている色が同じとは限らないが)、個人がまったく同じように受容されることは絶対にないのだ。
ましてや、その時の場所や状況によって当たる光も様々だから、自分が思ったように受容されないことは当たり前である。
私はこの原理を感じるようになった時から、人から見えている自分をもっと信じて生きていこうと思うようになった。
私はとても人見知りで、人と話すことは苦手だと思っている。
しかしそれを初対面の人に話すと大抵、「意外!そんな風に見えない!」と言われる。
もしかしたら、気を遣ってそう言ってくれただけかもしれないが、自分は初対面の人にはきちんと話すことができる人で、コミュニケーションがうまくとれるのかもしれない、と自分を客観視することができた。
また、私は彼氏がいたことがないが、それを人に言うと、「意外!絶対いると思った、いそうな顔してる」と言われる。
(気を遣ってくれただけ、と言ってしまえばそうなのかもしれないが、いろんな人に言われるので本心であると仮定する。)
高校生や大学1年生の時までは、「いたことがないのにそう思われるのは心外、いそうなのにいないのってなんかおかしいんじゃないか」そう思っていた。
だけど、人からそう見えているのであれば私はただ”彼氏がいそうなのにいない人”であるだけなのだ。
人の言葉の裏まで読んで勝手に落ち込むのは無駄だなとも思うようになった。
小学生のころ、すごくまじめでいい子でだれにでも優しい子がいると、「あの子は実は裏の顔が怖いから気を付けたほうがいいよ。」と噂が立った。
私はその時その言葉を信じて、もしかしたら怖い子なのかもしれない、と思ってしまっていた。
実際、怖い一面なんて見たことがないし、嫌なことをされてことはなかった。
例え裏の顔〜私には見せていない一面〜があったとしてそれが嫌なものだったとして、隠してくれているならそれでいいじゃないか。
私の前では良い人なのだから、それを信じて関わっていけばいいんじゃないか、小学生の頃の私にそう伝えたい。
人は他人の見えない部分を想像して、こういうことを言う人はこういう傾向がある、だから信じられない、とすぐに分類し何かに当てはめようとする。
一つ見えた一面だけを見てどういう人か判断しようとする。
こういう考えをする人とは仲良くなれない、嫌いだ、と攻撃する。
そうすることで自分が傷つくことを恐れているのかもしれない。
他人の一部から全てをわかったように判断することで人と真剣に向き合うことから逃げているのだ。
私はそういう考えをしたくない。
自分がみたものを信じて、自分が感じたように生きていきたい。
人が何と言おうと、私はこれが好きだ!美しい!大切だ!と心から言えるような人になりたい。
自分から見える世界が全てだとは思わないし、思ってはいけないことはわかってるけど、見えてないものを決めつけて生きていくのは傲慢すぎるように思える。
だから良い人だと思う人には良い人だと思っていられるまでずっと、良い人だと思っていようと思った。
良いと思った人には、ずっと変わらず良い人って思わせていてほしいなと、思ってしまうのは傲慢なのかな?いや、ささやかな願いだ。そう思っておこう。
自分のフィルターを通して色んなものを見て色んなことを感じて、色んなことを知っていきたいと思う。
よく自分探しの旅に出よう!という言葉を目にする。
これは自分のフィルターに色んなものを通すために必要なことなんだなぁと改めて感じた。
自分って考えれば考えるほどわからなくなるけど、唯一光が当たらずに何のフィルターも通さずに存在するものだからわからなくて当然だ。
物体に色がないように、自分にも色はない。
社会が、他人が、色を見出してくれる。
探さなくても、存在するもの、それが自分なんじゃないか??
こう考えることで少なくとも私は人生を少しだけ生きやすくなった。
お付き合いいただき、ありがとうございました。