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『ハートカクテル』
大好きな『ハートカクテル』
わたせせいぞう氏のコミックス『ハートカクテル』が大好きだった。アニメ版も悪くないが、私にとって『ハートカクテル』は漫画版の方である。初めて出会ったのは11巻が新刊として書店に並んでいた頃だ。高校生だった。それからさかのぼって、古書店などで少しずつ手に入れたコミックスだが、全巻そろえることはできなかった。私が持っていたのは全部で8巻ほどだった。
『ハートカクテル』が大好きなのに、どうしても過去形になってしまうのは、今は肝心のコミックスが私の本棚に一冊もないからだ。実家を離れて一人暮らしをしている間に処分されてしまった。
古書店でも品薄でプレミア価格化も
わたせ氏のコミックスが気に入って購入した読者は、そうそう簡単に古本として手放すようなことがないためか、古書店に行っても今ではなかなかコミックスを見つけることはできない。ネットではプレミア価格がついていて、定価よりもはるかに高額な値段で販売されているのをよく見かける。
画業50周年を記念した氏の作品展などが企画され話題になっているのをネットで見て、いま自分の中で『ハートカクテル』熱がふつふつと再燃しつつある。氏本人によって再編集され発売中の新シリーズも、いつか入手しにくくなるだろうし、手に入れることができるうちに購入しておきたいと思っている。
『ハートカクテル』を受け入れられない人々
『ハートカクテル』の世界観や登場する人物たちがどうにも鼻につき受け付けられない―という意見があるのを知っている。あまりにその世界観が幸せそうで、まさしく絵に描いたように美しく見えるからだろう。美しく描かれた絵は、醜く薄汚れた現実とは違う。そこに登場する人物も、どろどろした恨みや憎悪、嫉妬、ひがみなどの思いを直接的に描かれるようなことはない。まるで夢の世界、絵空事に過ぎないのだ―と。
絵に描かれた世界と現実がまるで違うように見える―というのは、実際には一つの意見である。絵に描かれた世界は現実そのものでないとして、それが写真や映像であったとしても現実そのものではない。表現されたものは常に人の目を通して切り取られた現実の一部であり、あるいは現実そのものでもある。
人の汚い部分を見てきた上で
わたせ氏が画業のかたわら保険業を兼業としていたことはよく知られる。私自身、保険業に少なからず携わった経験があるので、その仕事がしばしば人間の感情や深層に触れることにならざるを得ないのをよく知っているつもりである。わたせ氏が人の「汚い部分」を見てこなかったはずはない。
その上で氏の描いた世界が読者に美しく見えるのはなぜだろうか。美しく描いたからに決まっているだろう、現実とは真逆の願望を絵にしたからだろう―と人は言うだろう。
『ハートカクテル』という視点
私は『ハートカクテル』の世界のように、あらゆる世界を美しく見ることができる、その可能性こそ、まさしく人間の現実そのものであると思う。人間の内面に巣くう薄汚い心理をも含めて人間は美しい、人間のいる世界は人間にとって美しい。いや別に、それが美しく見え得る、と言い換えても同じことである。見方によって、世界は美しくも汚くも見えるものだという事実は変わらない。
世界を人はどのように見るか
世界を美しく見ることができるのも人間であれば、汚らしく見ることができるのも人間である。どちらが正しい、のではない。どちらが間違っているのでもない。そこには人間がいて、人間がいる世界がある。そして私たちは生きていて、人が存在する限りにおいて、どのようにも世界を見ることができる。
世界が凡人にはけして理解できないほど極端に複雑なように見えるのが現実であれば、実際には人間社会など誰にとっても極めてシンプルで単純な構造でしかないのも現実である。そこには人間がいて、人間が存在する限りにおいて、人間という価値そのものを見ようとする価値観があり、価値基準が存在し得る。
わたせ氏の『ハートカクテル』が現実とは違って鼻につく―という感想は、ゆえにどこまでも一つの感想でしかない、いわば価値観の表明である。そのような価値観がどれだけ多数集まったとしても、価値観の域を超えることはけしてない。価値観はどこまでいったって価値観である。独善的で恣意的なものなのだから。大上段に振りかざして切りつける武器になるようなものでも、大切に守らねばならないものでもないのだ(他人に守られなくても価値観は個々人が既に大切に守っていて、誰もそれを犯すことなどできないのだから)。
私は『ハートカクテル』が好きだ。世界は人にとってシンプルかつ複雑で、けして幸せなことばかりではないけれど、それも含めて生きる値打ちがある、そして、日常のどこにでもきっと小さな幸せがあって、そんな幸せを誰もが等しくかみしめることができるんだと思わせてくれるから。