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私の中にいる「女の子」を愛してあげたい

私はフェミニストです

こう言うと、たいていの人はちょっと身構えるかもしれない。
フェミニストを自認する私ですらそうだ。
それだけで嫌うことはないけれど、その人がどんなフェミニストなのかが分かるまでは距離感を計り続けると思う。

「フェミニズム」という言葉をネットで調べるとたくさんのサイトが出てくるけれど、ここではWikipedia先生の定義を拝借したい。

フェミニズム英語: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称である[1]政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差や性差別に影響されず、男女が平等権利を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動である[2][3]男女同権主義に基づく、女権拡張主義、女性尊重主義ともいう[1][4]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0#

「男女が平等な権利を行使できる社会の実現を~」というところを読むと、フェミニズムが「女VS男」だったり「女>男」という構図で語られるものではないことなのは明らかなのに、「フェミニズム」「フェミニスト」という言葉を聞くとちょっとドキッとするのはなぜだろう。
多分テレビ等に出てくるフェミニストを自称する人たちの言動は少々パッションに溢れすぎていることが多いからだと思う。

2014年、エマ・ワトソンが国連でスピーチをしたことがあるけれど、この時の彼女を見て「フェミニズム」や「フェミニスト」といった言葉に微妙な気持ちを抱く人はあまりいないのではないだろうか。
それはひとえに彼女が「フェミニズム」というものを冷静に正しく捉え、誠実な態度と丁寧な言葉で説いているからに他ならないと思う。

でも、ちょっとパッションが多いフェミニストたちを私は「うるさい女だ」と言って無下にすることはできない。
もっているパワーのベクトルが少し違うだけで、彼女たちもエマ・ワトソンも誰かの権利のために闘っているのは同じだから。


フェミニストの対義語と言えるのかは分からないけれど、ミソジニーという思想も世の中には存在する。

ミソジニー: misogyny[1][2][3]) とは、女性に対する憎悪嫌悪である[4][5]女性嫌悪女性蔑視と訳される[6][7]。ミソジニーを持つ者はミソジニスト: misogynist)という。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%83%BC

この2つの相反する思想ってけっこう紙一重な思想なんではないかと思うのだ。
実は私はちょっとミソジニストなところがあるんではないかと思うことがある。

自分語りになってしまうけれど、私は小さいころからあまり「女の子っぽくない」タイプだった。
かといって「男の子っぽい」かと言われるとそうでもないので、なんか「私」だったと言おう。
小学高学年あたりから周りの女の子の友達が「恥じらい」というものを覚え、良い形でも悪い形でも変化していく中、私はその波に乗れなかった自覚がある。
羨ましさか、単純に理解できなかったか、当時の私はいわゆる「女っぽい」ことにひどく抵抗感をもっていた。
勉強は1番になりたいし、スポーツだって汗臭くなっても全力でがんばりたい、くしゃみだってかわいくする必要はない。
でも周りの女の子はどんどん「女の子」になっていく。そのせいで仲良くなれなくなっていく。
小学高学年~中学生の時期は友人関係でいい思い出が無かった分、余計に「女の子」がすごく苦手で、ゆえに彼女たちのようになりたくなくて言動がだんだんガサツになっていくという良くない方向に向かっていった。
苦手でなんならちょっと嫌悪感すらもつ「女の子」として見られるのが、すごく嫌だったんだと思う。
これってちょっとミソジニーの破片くらいにはなるんじゃないかと思う。

高校生とか大学生ぐらいになると、今度は「男女平等」という思想が社会には存在することを知り、母子家庭で育ったバックボーンもあってか、うっすら「男性」という生き物・概念に嫌悪感を覚えるようになる。
個人の友達は人としても異性としても好きになれる人はたくさんいるけれど、「男性」という概念が好きになれなかった。
そういった気持ちに拍車をかけたのは、たぶん自分があまり好きじゃない「女の子」が理想とされたりモテたりする現実もあったからだと思う。
〇〇46系のアイドルやそういう雰囲気の女の子がもてはやされ、自立心が強かったりモノ言う女性は敬遠される風潮も好きじゃなかった。
好きな人ができても、「女の子」にならないと好きになってもらえないのではという不安が募ったり、好きな人の前になると自分が苦手な「女の子」になってるんではないかと思って反吐が出そうになったり、乱暴にまとめるとしんどかった。

本当は自分の中にいる「女の子」も愛してあげたい。
エマ・ワトソンのように自立して頭がよくて自分の意見がある女性でも、女性にしかない柔らかな雰囲気や愛らしさが両立できるし、おかしなことではないのだ。
ガサツにならなくてもいい、無理に強い女のようにふるまわなくてもいい。
「女の子」の定義は、私が苦手だと感じる種類のものだけじゃない。

最近そんな風に思えるようになったから、これからは必要のない場面であえてガサツにふるまいそうになったら、そっと「大丈夫」と自分の中の「女の子」に微笑んであげたい。


ほなね。

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