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#創作大賞2022 応募(#6/10)|何故、離婚によって人並みを捨てたのか?|廻り巡って結局のところ向き合う他にない。

「何故?」「そこまで仕事をするの?」


その言葉には、即答できずに大きな衝撃を受けました。


「何故?」「それは・・・」「家族のためだろ?」


と頭の中で喋ってみて、それが嘘だと自分で気付きました。



「自分の勝手なやりがい探しのため・・・」


集中できる楽しみと、何でも制限なく好きな品質(ブランド品には全く興味はありませんでしたから、知れていますが、自分の中では相当贅沢なことだと思っていました)の好きな品を買って、好きなだけ仕事をして、好きな時に家に帰って、好きな日に会社を休む(疲労が蓄積して起き上がれなくなることも暫々、酒が入った後は特に崩れ始めていました。)そんな自分勝手さが剥き出しになっていたのです。



即答できない私に、嫁さんの疑念が膨らみました。

嫁さんは、浮気を疑い。自分への愛情も疑い。これからの将来も疑い。私の真面目さへの理解も疑い始めました。

たった一泊の朝帰りの直後なら、笑って言い訳もできたのでしょうけれど。


振り返れば、ずっと何年もでした。長過ぎました。


何もヴィジョンがない。

途中のどこか浅い想いのうちに、吹き出していれば救いようもあったのかも知れません。

説明しようしても、自分自身の言葉にも疑問を抱き、本音が何処にあるのか分からなくなってしまいました。


自分自身としては、何を目指しているのか?

家族として、どうありたいのか?

嫁さんと、どう向き合いたいのか?

愛しているのか?

子供が好きなのか?

欲しかったのか?

もう一人は、いらないのか?

マイホームは、東京に築くのか?

いつか、故郷に帰るのか?



ノーアイディア。ノープラン。


何もヴィジョンがありませんでした。



これらのことについて、これまでに二人で話したこともなく、共有できる単語さえないことに気付きました。


どこから手を付けて、どの順番で解きほぐせばいいのか、全く白紙でした。


明確な言葉と態度を示せない私に対して、嫁さんは絶望の淵にいたのです。


泥酔状態。

深夜に家に戻ると、台所の冷たい床の上で泥酔状態で横たわっていました。


優しい言葉すら掛けてあげることができませんでした。


「もう終わっているのかも?」と思った瞬間に全ての力が抜けた気がしました。


この頃、役職(ポジション)をめぐる心の闘いもあった時でした。


崩れゆく自身の気持ち(元々何の芯もない小さな奴と卑下する自分を嫌う)、小さな家族も守れないのかも知れない貧弱さと、心身共に疲弊し生活リズムが崩れる中で、周囲への示しという課題にも直面していました。


「こんな不格好で役職なんて相応しくない。」「いっそ、成れるべき、相応しい人に譲ってしまおう。」


そんな風に諦めていたのだと思います。


思考が停止した瞬間。

飲みたくもない酒の量も増えて、家に帰りたいとも思わなくなりつつある自分に気付き、それ自体に、さらに嫌気を感じて負の連鎖から抜け出せなくなっていました。

只ただ、只ただ走ってきた、一人相撲してきた、誰とも気持ちを共有して来なかった、それを大切だと知ることもなく、結局のところ「自分のことしかできていない。」「いいえ。自分のことすらできていない。」と云う自分を知り、頭の中が「ピタっ」と停止してしまったと記憶しています。


閉じた心のまま。

今想えば、私の幼少時期の「閉じた心」のまま、それは何かと向き合うこともなく、恐らく逃げたい一心で、走り続けていたのかも知れません。

せめて心療内科か精神科にでも通って、カウンセリングを受けることができれば、何かが変わっていたのかも知れません。ただ、そんな発想も気付きも出会いも当時には全くありませんでした。


救いようがなかった時でした。


自分の「心」の状態が分からないままで、何も前向きな言葉を発することができませんでした。


やはり、過去と同じ様に、淡々と離婚調停の話しが静かに進みました。


可愛がって頂いてお世話になった、尊敬する社長へも、最後の日に「ありがとうございました。」と言うことが精一杯でした。


「また、何処かで一緒に仕事しような。」と言って涙ぐんで頂いた表情を忘れることができません。


せめてもの贈る言葉だったのでしょう。


この大事な時に、私の涙は既に零れることもない凍った状態でした。


帰郷(都落ち)。

6年間過ごした部屋の片付けに1ヵ月の時間を要しました。

不要なものが分からず、なかなか決断できませんでした。

酒を飲みながら、冷蔵庫の中や備蓄の食料品を食べながら、一歩も外に出ることなく、カーテンを開けることなく、ゴミ捨てに、箱詰めに意味のない「溜息」をつきながら作業をした記憶が少し残っています。

暗黒とは、あの状況、状態だったのかも知れません。


実家に帰ってからは、一ヶ月ほど放心状態でした。

何も思考が始まりませんでした。


娘との最後の思い出創り。

2ヵ月目となった時に、母を連れて娘を迎えに行きました。

最後の思い出を創ろうと、遠方に住む親戚を尋ね、こちら側だけの小さな温泉旅行に出掛けました。

娘の髪のカットに付き合い、温泉に一緒に入って体を洗ってあげました。ご飯を一緒に食べて、一緒の布団に入って眠りました。

「むぎゅっ」ていうので、抱きしめてあげました。

皆んなで定食屋さんに入った時にダダをこねて、頭を叩いてしまいました。それでも直ぐに泣き止んで、何故だか楽しそうに平らげました。とても印象に残った光景です。


嫁さんの住む地も遠方でした。最終最後の日は、私と娘二人で向かいました。
高速道路上でしたが、二人でふざけて笑い続けた「娘の声」は耳に残っています。


それでも、「さようなら」しか選択できなかった当時の自分自身を、冷たく傍観しています。


心が閉ざされ過ぎた弊害でしかないのだと思っています。


「歪んで」いたのです。


ただ、せめてもの償いの気持ちから生まれた作品があります。
これが精一杯の気持ちの表現でした。


社会人1年生時に既に、人生の出遅れを感じてはいましたが、それを越せると想い走り続けた結果が芳しくなかったことが、絶望となりました。


白紙を自覚した瞬間に、人並みという言葉を失いました。



結局、自分には何も築けないのだと言う、想いだけが残りました。



つづく



最後までお読みくださり、ありがとうございました。

胸の内を全て書き出し終えるまで、向き合い直す他にありません。

「楽観の部屋」でしか、言葉にできないことに気付かされました。

書き出すことで生じる嬉し悲し複雑な苦悩の時が、暫くは続きそうです。

静かにお見守りを頂ければ幸いです。


_(._.)_

※ペコリ _(._.)_ は、誤字脱字(見直し)の確認の印です。
(発見された方は、是非ご指摘願います。真摯に受け止めます💝)



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※この記事の悩みどころ(表現や判断に迷った事などをメモしています。)
・「共感」を求めるための綴りではありません。ただ淡々と「飾らない言葉」で表現するつもりです。思考を曲げないために、妨げないために。ある意味でそう宣言します。自分のために。


※参考・引用など


<イメージ写真・動画など>

幾つもの峠を越えて|K-systemさん制作
https://www.photo-ac.com


以上

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