#創作大賞2022 応募(#5/10)|何故、新しい環境(転職先)で花咲き謳歌できたのか?|廻り巡って結局のところ向き合う他にない。
過去の経験を尊重し得意を引き出された。
後に某商社子会社の社長となる、当初その部署の部長により、私の可能性が引き出された。
「おい。土木の仕事をやってたんだろう?」「CADって知ってる?」
※CADは「Computer Aided Design」。パソコン上の製図ソフトで描いた図面を、プロッターと呼ばれる自動製図(描画)機で書き表すことの総称と理解しています。
「ビジネスソフトの担当やってみる?」
これが全ての出発点となりました。
そのビジネスソフトとは、ワープロ、ドローイング(簡易描画)、先ほどのCAD、ペイント(塗り絵っぽい感じ)、工程管理、カード型データベースと云った、ビジネスマンなどがオフィスで使用するためのアプリケーションプログラム(ソフトウェア)のことです。
起動する環境はApple社のMachintoshで、もちろん元になる製品は英語版(英語OS環境で英語メニュー|当然ですが)で、この英語版を日本語化(ローカライズ|現地文化への適合)するという仕事でした。
そうです。その通り、米国から供給される形をそのままそっくりと日本語文字に書き換えるのです。
私が直接タッチしない仕事(業務分担という意味で)は、英語版のソフトウェアを日本語メニューに置き換える作業(英語版の半角の世界1バイトを日本語の全角の世界2バイトへ対応させる作業等)だけでした。
この開発作業は特殊(専門的)なプログラミング言語を熟知している必要があります。
私の知識とは、DOSプロンプトさえ打ち込めないド素人でしたので、もちろん関われるはずのない世界です。(神的世界なのです。)
製品担当者が担う責任範囲はかなり広範なものでした。
1.英語版が米国でリリースされると同時に、日本国内での販売計画を立案します。
2.基本、そのままの形で輸入し、パッケージ内に日本での問い合わせ先(サポート窓口)を添えて、シュリンクラップします。その上には販売代理店のステッカーを貼付します。
3.取引先の流通や販売店向けの販促物(チラシ、リーフレット、POPなど)を、損益計算で許容される範囲を予算として、制作して提供します。
4.英語版の流通本数は大きくはありませんので、自ずと販促費に充てる予算は極々微々たるものになります。
5.ですから、限りなく協力会社(企画・デザイン・広告会社などという所謂、外部発注先)を利用しないようにと思考が働くのです。この考えが当然でした。できることは最大限、自分達の手で賄う。A4用紙1枚程度の翻訳は社内の翻訳部署で、社内コストとして依頼することができました。
これを受け取り、より日本語らしく、分かり易く、しっかりとキャッチを仕組み、推敲しまくるのです。時には全文がそっくりと変わってしまうこともありました。例え販促物とは云え、社内ルールに則って回覧し承認印を集めました。時には、各部署から赤字(朱)の応酬を受けることもありました。それでもまた書き直して、再度、回覧に委ねました。
部署の方針は、先ず「製品を愛しなさい。」でした。
英語版(英語メニュー)とは云え、実際に操作し、その操作性や機能を確認するのです。もちろん、日本語OS(オペレーティングシステム)の上で英語版は正式サポートの対象外ですが、とにかく触りまくって、試しまくって、その製品の長短を知ることが求められていました。
A4裏表程度のチラシは、各製品担当が自ら原稿を起し、レイアウトソフトを使ってデザインそのものまでも熟してしまいました(もちろん、プロの手によるものよりは品質は劣ります)。
印刷のベースとなる版下は、一色の簡易印刷程度なら部署のレイザープリンターで出力したものを利用していました。
英語版を利用するユーザー(購入する顧客)は、少なくとも環境となる前提条件や、そもそも英語メニューであることを承知の方が大半ですので、大きなクレイムや難しい問い合わせは殆どありませんでした。
それでも米国でのQ&Aやトラブルシューティングの情報は、翻訳部署で日本語に換えて、サポート部門へ提出しなければなりません。万が一に備えた対策でした。
日本語版の販売準備が、一言で云えば「大変」でした。
ローカライズ、開発作業に掛かる経費や盛大な広告宣伝費、販売促進費、資材コストなどの損益計算はもちろん。パッケージの外観から、添付されるマニュアル、ディスクラベル(当時は3.5インチのフロッピーディスク)に至る全ての資材の校正作業、その他、広告、カタログ、POP、教育用冊子の書き起こし、営業マンが欲しがる説明用資料の作成、製品発表会、出版社(プレス)周り、同行営業、営業マン向けの製品トレーニグ、導入検討先でのプレゼンテーション、クレイム電話への対応、サポート部署との連携等々、本当に盛沢山の広範な責任を担うのです。
夜21~22時頃までの居残りは普通で、朝までコースは頻繁でした。それでも全てが常に斬新で新鮮で、楽しくって苦痛に感じることはありませんでした。
自分の携わる言葉やメッセージが世の中に届くという緊張感と、媒体(専門雑誌)に掲載される広告やレビュー記事となって返ってくる誇らしさと楽しみで夢中になっていました。
特に日本語独自の機能を盛り込んだ製品リリース時には、より一層の製品への想い入れや、やりがい、少しの英雄感までを味わうことさえありました。
米国本社営業担当者との交流(歓迎パーティーや飲み会)の場所で、取り組みへの「ねぎらい」や「販売結果への称賛」の言葉は、忘れられない勲章となっています。
殆どコンビニ弁当しか食べない(食べることはない)忙し過ぎる3年間が過ぎました。
ちょうど、この頃に、結婚と3社目となる転職の機会が廻ってきました。
水面下で物事は動いていました。
ある日、部長から声が掛かりました。
「なぁ。晩ご飯一緒に行こうぜ。」「何が食いたい?」
東京で会社を立ち上げるという説明を受けました。
「一緒に仕事をしないか?」
一つ返事で決まりました。
社会人初めての「年俸制」と云う言葉に遭遇した日でした。
月額で計算すると、その日まで受け取っていた給料の約2倍となる金額でした。
金額への実感はもちろん無く、むしろ最初に声を掛けて頂いて長所を活かしてくれた、あの部長から「お誘い」を頂いた嬉しさが印象として優先していました。
「ビジネスマン」としての謳歌。
それから6年間に渡り、会社が急成長する様を肌身に感じながら、充実し過ぎる「ビジネスマン」を謳歌することになりました。
そこで「営業とは」「マーケティングとは」「顧客とは」を徹底的に実践(実戦)の中で学ぶ機会となりました。
その敬意と尊敬を持って接していた社長から教えられた「マネジメントとは」が、今でも私の宝物になっています。
感謝の限りです。
「本当に、ありがとうございました。」
しかし、私はその中に「弊害」を創り出してしまったのです。
仕事は楽しくて仕方がありませんでした。気が付けば終電間際で地下鉄の駅に走ることが多いほど、全てを集中して取り組んでいました。
また、お世話になった親会社の商社マンたちの活動時間帯が、世の中の基準と少しズレがあることも原因の一つでした。海外との電話会議の時間が夜21~22時の遅い時間帯が必然でした。
21時を回った頃に部署へ外電が入りました。
「もしもし。遅くまでお疲れ様です。」
「未だ、いらっしゃいます?」
「もし、良かったら、弊社で〇〇〇と電話会議をするのですが。」
「販売促進の予算をはじきたいので、ご同席頂けませんか?」
「その後、ちょっと、一杯。行きません?」
「何処か、いいとこありますか?」
「内緒ですけど、女の子のいるところでもオッケーですよ。」
「何分位になりそうですか?」
「はい。お待ちしてますね。」
「ありがとうございます。」
海外との電話会議を終えて、提案する資料の目途を立てる打ち合わせを終え、街へ繰り出します。終電は既に終わっているのでタクシーで会社へ戻り、朝までその提案資料の敲き台を作成し、メールで商社マンの担当者宛てに送信します。
始発で家に帰り、シャワーを浴びてスーツを着替え、コーヒーを啜って、嫁さんから少しの嫌味を聞かされて、また、さっきまで居た会社へ戻るのです。
無頓着だった。
それは、どの位の期間だったのかとは愚問で、ずっとでした。土日の有難き週休2日制でしたが、大抵の土曜日は金曜の夜から事務所に居座って朝を迎えることが多かったのです。
東京へ来る前に買った中古車を新車に買い換えました。
大そうな代物ではありませんが、世の中の基準で云う外車でした。嫁さんの趣味で、なおかつキャッシュで一括払いでした。
唖然としました。「そんな金どうしたの?」
好きなスーツ、好きな革靴、好きな鞄、好きなネクタイを買って贅沢していたと思っていましたが、知らぬ間に結構な額が貯まっていたのです。
お金と生活状態に無頓着だった自分を知った瞬間でした。
その後、子供が生まれ、急激に家庭の空気が濁り始めました。
つづく
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
胸の内を全て書き出し終えるまで、向き合い直す他にありません。
「楽観の部屋」でしか、言葉にできないことに気付かされました。
書き出すことで生じる嬉し悲し複雑な苦悩の時が、暫くは続きそうです。
静かにお見守りを頂ければ幸いです。
_(._.)_
※ペコリ _(._.)_ は、誤字脱字(見直し)の確認の印です。
(発見された方は、是非ご指摘願います。真摯に受け止めます💝)
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※この記事の悩みどころ(表現や判断に迷った事などをメモしています。)
・「共感」を求めるための綴りではありません。ただ淡々と「飾らない言葉」で表現するつもりです。思考を曲げないために、妨げないために。ある意味でそう宣言します。自分のために。
※参考・引用など
<イメージ写真・動画など>
幾つもの峠を越えて|K-systemさん制作
https://www.photo-ac.com
※この頃の思い出を表現した記事があります。
以上