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【香水連載】色も香も part2_Cleopatra

香水からインスピレーションを受け、それにまつわる文章を書く連載の第2回。今回もエッセイストの梶本時代さんとともに、同じ香水で文章を綴ります。ぜひ読み比べてみてください。

今回選ばれた香水は、

TOCCA【Cleopatra】

うつくしいひと

「あのね、甘くないの」
「あれ。姉さん、お砂糖足りませんでしたか」
 ママがマグカップに口をつけた瞬間、即座に苦虫をかみつぶすような表情をしたから、その原因は私の淹れたコーヒーのせいだと思った。
「ちがうわ。あなたが思ってるほど、この世界は甘くはないってこと」
 鮮烈なルージュの赤が妖艶に動く。私は見惚れてしまい、発言への理解が遅れる。どうやら彼女はこの世界の先輩として、入ったばかりの私に忠告してくれているようだ。

 ママが金勘定を済ませる間に、私は猫の額ほどもないカウンターキッチンを布巾で綺麗にふきあげ、焼酎のキープボトルを並べ直し、ベロア地のスツールにうっかり客の吐しゃ物が付着したりしていないかをきちんと確認する。この手の店は水商売のなかでも奇抜でとにかく派手な分野だと思われがちだが、自分がカウンターに立つようになって、こういう小さな店ほど客との時間を大切にすることがわかってきた。

 始発が動き出したのを確かめ、店の隅っこで酔いつぶれたままの客を丁重に路上へ掃き出すと、ようやく店じまい。仕事の終わりに、電気ポットに残ったお湯割り用のお湯で、インスタントのコーヒーを淹れて、一息ついてから帰る。

「姉さん、私、この店に入ってまだ3か月だけど、覚悟してきてるつもりよ」
 そうはいっても、酒でやけている自分の喉には、立派な喉仏がせり出している。化粧で厚く塗りたくり、首とすっかり色が異なる白い顔には、時間帯的なものもあって、うっすらと髭も生えかけている。私がきっぱり割り切ったつもりでも、変わりきれない中途半端な体が、中途半端な気持ちを表しているようで、少々ばつが悪くなる。

「あんた、なんにもわかってないわ。こうなるのよ。ごらん」
 ママは私の気持ちを見透かすように、日本男児の気配を色濃く残す切れ長な目を細めた。そしてスツールに腰かけたまま、おもむろにセパレートのセットアップをめくり上げ、脇腹を隣席の私に見せつけてくる。

 ルージュと揃いの真っ赤なネイルの向こう側、あらわになったそこは対照的に筋肉質で、わかっていてもどきりとしてしまう。
 そしてそこには、黒く盛り上がった一筋の傷跡。
「刺されたの。実の息子に」
 普通の男性として家庭を持っていた過去をもつママは、まるで今日の天気を告げるように、平然と言い放つ。美しくしなやかな彼女の言葉からは、十分すぎるほど匂いたつものがある。

「この世界はね、きらびやかだけど、それ以上に大小様々な犠牲で成り立っているのよ。戻れるならいま、戻ったほうがいいわ」
 彼女、いや彼の真剣な瞳が、煙草の煙の向こう側で私に問うてくる。

 煙草休めに差し込まれた煙草が崩れる頃合いで、ようやく私は噴き出した。
「――ママ。そんなふうに、私の覚悟を試そうとしても無駄よ」
「……どうしてそう思うの?」
「どうしてって、ほら」
 私は躊躇いなくワンピースの裾を握り、腹までたくし上げる。
「あらやだ」
 そこには、同じ箇所に、同じ長さの、同じ傷。
「私も、やったから。盲腸」
 ママはそれまで頑固な母のように強張らせていた表情を一気に解き、声を殺してくつくつと笑い始めた。私も同じように、腹を抱えて、笑う。

 男も女も、本当の名前もわからない。どこまでが嘘で、どこまでが本当かも、わからない。わからないのが心地いい、嘘だらけのこの世界で、私はとりあえず、彼女の優しさを勝手に信じることにした。

 世界は必ず新しい朝が来て、私達はそれぞれの家に帰り、眠りにつく。
 おやすみなさい、うつくしいひと。


梶本さんの記事はこちら


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