精神世界は身体からの逃げ場ではない。人類は身体を否定する段階にない。身体を知り尽くしてから言いなさい

これまでの精神世界はもっぱら、身体からの逃げ場であった。

障害、機能不全、劣等、老い、病、醜さ、

あらゆる身体の居心地の悪さから手っ取り早く逃げるために、深淵な精神世界のエッセンスを少しだけ拝借し、世俗的な都合を混ぜてなんとかひねり出された代物である。

ときに、イエスやゴータマといった者が現れて深遠な精神世界を説いた。

しかし、彼らの教えもまた、身体性への言及、身体がなぜどのような目的であるのか?ということを十分に説明できないものであった。

間接的に表現されたものを解釈するとすれば、「身体は仮の姿」だとか「重視すべきものでない」とか「修行である」といったことであるが、それも直接には表現されなかったのである。

身体への言及の甘さは、そのまま「欲」への言及の甘さに直結する。単純に欲は身体性のためにあるわけだから。(例えば仏教の欲の説明は分類してみせるだけに留まる。分類はするが踏み込まない。意図してか意図せずか、どっちでもいいけども、理解しているように見せかけている。つまりアリストテレス的wである。)

つまり、身体を説明できねば欲を説明できず、欲を説明できねば世間を説明できず、争いを説明できず、すなわち幸福をも説明できないにも関わらず、である。

だから、既存の宗教は身体と欲の問題から逃げたがる。身体はまだしも、欲に関してはまあひどいものだ。それらは恥であり未熟さである。ってことにして封じとけ。 という感じ。

そういった不自然さで覆った社会から、様々な問題が沸き出し、しびれを切らしてフロイトやユングなどの系譜が生まれてくるわけである。

私はそこに明らかな歯切れの悪さを感じる。

率直に、「察してね?」「メンドイなそういうことにしとけよ」「みんなそれでいいんだからそうしとこ?」という感じを受ける。

それは初めてそういった本を読んだ20年前も今も何も変わらない。むしろ確信に変わりつつある。

そして、そうなったのは、そこに集まった信者が、そういうことを求めていたからでもある。

身体は、この世は、あなたの劣等は、無力は、欲を満たせないのは~すべて仮の姿で~この世を耐え忍ぶ修行のためであり~~~

というお言葉を、聞きたかった人達である。

その信者の質問題というのは結局、

Youtube 始めて気づく ファンの質 で書いたような、発信者の質とファンの属性の偏りの法則、

人々を 説得したくて 嘘をつき で書いたような、次元や抽象度を落としてファンに媚びたことを言い始める

という現代にも普遍的に起こっていることと、過去に偉人たちの回りで起こったであろうことは、何ら変わりないと、確信するほかない。

世間の大きな流れでいうと、老人や弱者の慰め+それらが若者を封じる(嫉妬の正当化)道具+時の権力による統治の道具 としても利用された。


私から言わせれば、身体は精神世界と密接なつながりを持った、個人個人にとっての最高の教師であり、あらゆる発見の元であり、神秘の頂点であり、娯楽である。

私がまだそう思えなかった頃、つまり身体を憎んで疎んでいた頃に思っていたことは、「身体が無くなれば自由なのに」「身体の拘束から離れた純粋な観察者になれたらな」「なんでこんなに弱点欠点だらけなのだろう」「できそこないの身体を機械にでも置き換えれたらな」「あー食事も面倒だ」「身体が重い」「毎日こんな歯を磨いたり色々しないといけない身体、本当に面倒くさい」といったことだ。

その時点でも旧世代の「悟り」といわれる状態くらいには既になっていたにも関わらずである。つまり、今思うと全然甘い、逃げだったのだ。

今はそれが全てなくなったとは言わないが、少なくとも認識は大きく変わった。

つまり、身体を生きることが楽しくなったので、そう思わなくなったのだ。

笑ってしまうだろう?楽しいとそう思わなくなるものを真実とは言わない。

それは逃避であり、こじつけであり、ごまかし といわねばならないものだ。

精神世界を説きたくば、身体の神秘を知り楽しく生きることができた者だけが、それでもなお説きたいことだけを口にしなさい。


いいなと思ったら応援しよう!