真逆の2種類の「運」

運には大きく2つある。

2つは 多くの観点からまったく性質が逆

ところが、少なくともここ数千年
おそらく近代でいう「社会」なるものができてから

その2つは混同され、同じ性質
管轄かのように扱われている。

それぞれに親和性の高いキーワードを示す

自然 平等 博愛 無条件 代償なし
人(生物)運 場にあるもの 起こるもの
非競争的 非分配的 非限定的
日常の善い思いや行いによって上げることができる
日常の生活によって得る
この運が無くても苦しまないが、
この運を感じて気づけば豊かになる


人為 不平等 偏愛 条件付き 代償あり
神(霊)運 神(霊)等にあるもの 起こされるもの 
競争的 分配的 限定的
日常の善い行いによって上げることができない
礼拝 呪い 念 信仰 誓約 生贄 儀式 によって得る
この運がないと苦しむ
この運は一度知ったら最後、得続けないと苦しむ


前者は 

よき友達であったり先生
出会う人や生き物など
天気や景色
気分や感覚 
芸術・豊かな情動 など。

後者は

権力 名誉  競争 戦争 
事業 勝負事 お金 地位 など。


後者のうち、 「お金・事業・勝負事・名誉」は

善き内心に基づく必要最小限の範囲なら前者の管轄になるが

これまでの「社会」では、そのほとんどが後者の管轄にある。


さてと、、
面倒だからまた結論から書く

後者の管轄は、これまで「神」を名乗る大小の紛い物であり、
それらが超科学的な力でかなりの部分を操っている。

世界中でそういった

宗教や教え
祀られている無数の場所
呪術や祈祷 

といったものが盛んにあるのは、そういったものが実際に力をもっていたからだ。

が、それらの存在は本来、それほどの力を持たない。

それらに力を与えているのは、

人間の「恐れ」「不安」

「欲望」「怠惰」「憐憫」

「疑い」「嫉妬」「妬み」

それらから派生する数多くの「邪悪」


つまるところ、人間の邪悪なエネルギーを吸い上げてそれらの存在は大きくなり、存在感を上げていった。

邪悪なエネルギーを集積することで力を持ち、
崇めない、畏れない、従わない者を攻撃し、屈服させ、
さらに力を集める

ちょうどそれは、単なる金庫業がある日「信用創造」をしだす
資本主義がすべてを飲み込む

のとまったく同じようにだ。


先程分けた2つの運は、まったくの別物である。

このように説明すれば、納得できる人も多いだろうが、不思議と混同されているのは、

それが邪悪であるとばれると力を失い困る存在がいるからだ。

悪貨は良貨に偽装しなければ価値を保てない。

偽物は常に、本物に混ぜなければ機能できない。

神も運も同じということだ。



つづく





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